* ハイウェイ・三日月・化粧品 *





大和

さよならと言えばすべてが・・・?


私はただの空っぽのコップだ。
その事に気付いてから、随分気が楽になったように思う。
少し前の私は乾いた器だった。苛立っては辺りを見回し、ひたすらに水を求めていた。
彼の話を聞く時。彼の頼りない笑顔を見つめる時。彼の背中を追いながら歩く時。私は誰かになる事が出来た。
満たされていた。と、つくづく感じるのは、私が空っぽの器だからだろう。

彼が居ない今。それでも私は彼で満たされている。以前の物とは明らかに変質してしまったけれども、私にはそれを悲しむべきなのか、 喜ぶべきなのか分からない。彼が殺しそびれてしまった恋情は、器の中で腐臭を放っている。
あるいは淫らな空想で。
あるいは憎むべき敵をして。
あるいは、最大の幸福の形として。
空のコップの中には、毎夜色鮮やかな妄想が満たされる。
この上なく静かな三日月の夜は、いつしか彼を物語の主人公にしてしまった。
メールの返信が無い夜が、少しずつ、少しずつ、彼と私の間にあった距離を崩壊させていった。そして今、私と彼とを繋ぐ、 長い長いハイウェイは消滅してしまった。
私たちは生者と死者のように。北極と南極で、同じオーロラを見るように。アンモナイトの化石を、この手に取るように。
距離がもどかしくて、距離を壊した。
結果、近づいたのか遠のいたのかは正直分からない。


注がれた水のほんの少しの不純物は、蒸発せずに底に溜まる。それが私の二十年間。否応無く蓄積された時間の残骸。
だから、「私はただの空っぽのコップだ」と言うのは正確ではない。底の方にゴミが溜まったコップ。それが私だ。
私が私に戻るためには、いつの日かコップの底に残ったゴミを綺麗に洗い流さなくてはならない。
私は、ただの空っぽのコップだ。
それ以上も、それ以下も、私は望みたくない。

今考えれば、彼もまた空っぽのコップだったのかもしれない。空のコップが二個並んだところで、 満たされるのは「空」と言う事実だけだ。
私という「空」と、彼という「空」。
私たちは注ぎあう事も出来ずに、少し戸惑いながら透明に寄り添っていただけなのだろうか。
いや、違う。少なくとも私は彼で満たされていた。
問題があるとするならば、私の中に注ぐべき水が無かっただけだろう。
私はただの空っぽのコップだ。
彼が私の中に彼自身を見つけない限りは。


私は誰かでありたかった。
何かになりたかった。
光に溢れるものを追い求めて、絶望して、何も変わらない自分を嘆いていた。
けれど、それも終わった。
私は・・・。
今日は彼にさよならを言いに行こう。
透明なガラスに蓋をして、色づけて誰も入らないように。何も入れないようにして。
久しぶりに色づいた私は、私の知ってる私じゃなかった。
鏡に映ってるのは、誰だっけ?私は目の前に散らばった古びた化粧品は、これは一体なんだっけ?
鏡の中の、オレンジ色の唇が笑った。
てかてかと、グロスののったくちびるはどんよくにみだらをもとめている。
私は思わず目を逸らした。視線の先には、透明のコップが握られている。
私は迷ってる。コップを割ろうか迷ってる。



sai


 彼女がこのシートに座るのは何度目だろう。
 決して広くなく、むしろ大の大人ならきつい。
 尻の下に敷いている材質も硬くて座り心地はいいとは言えないが、幼く、それ故に小柄な彼女にはぴったりのサイズだ。
 シートからは香水の匂いが微かにする。それとも化粧品だろうか?どちらにしろ、彼女には縁の無い代物だった。
 彼女は口紅をひいたこともなければ、マスカラを持ったこともない。
 まあ、彼女の12歳という年齢なら普通だろう。そして、これからも彼女の顔にメイクがのることはない。
 彼女は頭の上の安全バーを下ろそうとして、ロックが掛かっていることに気付く。
 いや、気付いたふりをする。
 彼女は諦めてシートから降りて、そのまま前に続くレールにそって歩いてゆく。
 これも、いつものことだ。
 レールは発着場を離れ、足場がやがて細い鉄のレールだけになる。天に向かって伸び始めるそれを、彼女は軽々と登ってゆく。  もう毎晩のことだが、彼女は今まで一度も足を踏み外したりなどして落ちたことはない。
 やがて頂上に辿り着く。
 そこから眺望できるのは、ネオンのひとつのこらず消え失せた巨大遊園地。
 暗闇にひっそりと浮かぶ観覧車、メリーゴーランド、コーヒーカップ。
 彼女はひととおりその巨大玩具を眺めたあと、また前に向かって歩き出す。
 前?いや、その表現は正しくないかもしれない。目の前にやがて現れるのは、奈落の底まで続くような急な下り坂。

 この先には何があった?

 彼女は天を見上げた。
 綺麗に整った眉毛のような細い三日月が、チークを施したように微かにオレンジ色に染まっている。
 そしてもう一度、前を見つめる。奈落の底から這い上がったレールはまた上昇し、
 ときには緩やかに、ときには急激に弧を描きながら縦横無尽に走り回る。
 この空を駆ける小さなハイウェイはメビウスの輪のようにぐるぐる周り、またスタートに戻ってくる。
 どんなに歩いても、決してゴールにはたどり着かないのだ。
 永遠に巡る輪廻のように。


 「こんばんは、お嬢ちゃん」
 またいつもの警備員が、目ざとく彼女を見つけて声を掛けてきた。
 彼女は答えずに、そっぽを向いた。
 「そんなところにいると危ないよ。降りておいで」
 それにも答えず、彼女は思いっきり舌を突き出していわゆる「あっかんべー」をした。
 もう高齢のこの警備員は、夜勤の度にこうやってコースターの傍らにいる彼女に会いにくる。
 しかしいつもは、にこにこ笑って遠巻きに彼女を見ているだけなのに、今夜はなぜか様子が違った。
 彼は警備棒と懐中電灯をコースターの脇に置き、四つん這いでレールを登ってきたのだ。
 彼女はびっくりして思わずいやいやをするように首を横に振った。老警備員は気にも留めずに「ひゃー」とか変な声を上げながら近づいてくる。
 やがて警備員は彼女の居る頂上にたどり着き、落ちれば命は確実に無い空の上の、足裏とおなじ幅の鉄の足場に立った。
 「いやぁ、怖いねぇ、いい眺めだね。お嬢ちゃんが毎晩くるのも判るね」
 「・・・・・・」彼女は今日初めて、老警備員と目を合わせた。
 「これからは毎晩、嬢ちゃんとここから空を見ようかと思ってさ」
 「・・・・・・」
 「落ちるって?それはあんたにも言えることだよ」
 「・・・・・・」
 「ほら」
 爺さんがしわしわの手を差し出してきた。
 「降りるなら嬢ちゃんも一緒だよ」
 浅黒い、棒切れみたいな指が薄闇に浮かぶ。何年何十年と使い込んできた老人のものだ。
 酷使しつづけて、血管も骨も浮き出ていて半ば壊れてしまっているみたいだ。
 彼女の手は小さくて、爪だって桜貝みたいにぴかぴかしている。
 たった12年しか使わなかったから。使えなかったから。
 
 享年12歳。突然の幼い死は、彼女の両親に深い悲しみを齎した。
 彼女がジェットコースターの事故で命を落としてから半年経つ。
 彼女は半年しか経ってないと思う。彼女の両親は半年も経ったと思う。
 彼女はお母さん、と呟いてみた。そしてお父さん、と呟いてみた。
 警備員が彼女の頭を撫で、優しい、しわがれたロートーンで囁く。
 「今ならまだ、また嬢ちゃんのお父さんとお母さんの子供に生まれることが出来るよ・・・きっと」
 
 今なら、まだ間に合うかもしれない・・・?
  
 「本当に?」彼女が問う。
 「本当だよ」警備員が答えた。
 「本当に本当に?」彼女がまた問う。
 「本当だよ」警備員はまた答えた。
 
 ざぁっと風が吹いた。彼女は、次の瞬間跡形もなく消えていた。
 老警備員は満足そうに、どこか、寂しそうに微笑むとひとりごちた。
 
 自分は、誰の元に帰ればいいのだろう。
 頂上から見渡せるレールの何処にも、愛しい人はいないのに。
 
  

 彼女は覚えていなかった。
 あの日コースターのシートから放り出された自分を受け止めてくれた人がいたことを。
 たまたま園内を見回っていた、年老いた警備員。
 警備員はしっかりと彼女を抱きとめたが、そのまま後ろ向きに倒れコンクリートに後頭部を強打して即死、
 彼女も全身を強く打ってまもなく死んだ。
 老警備員は身よりもいなく、質素な生活を送っていたらしい。
 だが、そのことで彼は彼女を助けられなかったとはいえ、ひととき、彼は世間で英雄視された。
 
 それがなんだと言うのだろう。
 何十年も生きてきて、幼い子供ひとり助けることが出来なかったのだ。
 妻を亡くしたときも、幼くして息子を亡くしたときも、後悔したのに。
 そして、自分の手を引いてくれる人はもういない。
 後ろと、前。
 終わりの無いレールを見つめながら、彼は、彼女の幸せを祈ることしか出来なかった。
 
 
 
 
 :補足:
 ロッタちゃん様からリクエストいただきました。ありがとうございました!




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