3 title story
魚/地球儀/むかしばなし



from sai

「今も君がいる海」


 当時の僕は、人並みに器量が良く献身的な妻と、努力の結果築いた地位に基づく金銭的な充足、それから可愛い娘、趣味である釣り仲間たちと育んだ居心地の良いコミュニティーがあった。

 傍から見れば順風満帆な人生だった。自分から見ても満たされていたのだから、友人たちは口々にそう言ったものだ。「お前は恵まれている」と。そのたびに僕は笑って「今だけさ」と答えたものだが、本心からの言葉では無かったことは明白だ。僕はそんな毎日が永遠に続くような気がしていた。  だから気付けなかった。最も傍らで僕に寄り添う愛しい人が、ゆっくりと逸脱していった経過を把握したのは、彼女の全てが海の底に沈みきってからだった。


 家族と僕は彼女の全てだった。あえて家族と僕を別カテゴリーにしたのは決して自惚れでは無く、子供が出来てからもその愛情は娘に完全にシフトすることなくほとんどが僕に注がれていたからだ。

 僕は僕のために彼女を大切にした。欲しがるようなものは先に与え、彼女が望むような僕でいるようにした。僕は彼女がいつまでも変わらないでいてほしいと思っていたから、僕の些細な変化を気取られないように家庭では振舞った。

 僕は年を重ねるごとに保守的になり、穏やかになっていった。

 彼女は年を重ねるごとに―――ああ、余り思い出せない。小皺が出来ただとか、料理が上手くなっただとかそんなことは僕にとって丸っきり重要じゃなかった。  彼女と、彼女の笑顔だけをずっと見ていた。そしてそれが僕の望みだった。


 そんなある日彼女が、娘がどこかから貰ってきたマグカップにいれた小魚を、それと知らずに水ごと飲み乾してしまったことがあった。自分が飲み下したものの正体を知ったとき彼女は必然的に洗面所に走ったが、嘔吐したところで自分の胃の中の小さな魚は救えないだろう。そう思ったらしい。気色悪さよりも先に殺した命を思う心は立派だと思う。彼女はそのとき嫌悪に涙をいっぱい浮かべた娘に対して謝罪し、それから、小さな命は、ママの中で生きていくからと娘を宥めたそうだ。

 しかし、その言葉は娘より遥かに重く彼女に響いたようだ。

 小魚はどうせ塩素まみれの水道水の中ですぐ死んでしまったに違いない。何の魚だったのかも、娘にあとで聞いてもその形容は要領を得ずにはっきりしなかった。


 それから彼女は、彼女の中の魚の安否を気遣う娘に度々このようなことを繰り返していた。「大丈夫。今も元気に泳いでいるから」一度ついた優しい嘘―――この場合、ブラフとも言うべきなのだろうか?限りなく嘘に近い誤魔化しの真実。それは、そんな母の台詞で娘が無邪気に安心して笑うたびに彼女の中で動かしがたい真実となっていった。


 それから少し経ったある日、極めて稀なことに、彼女が沈んだ顔をして帰宅した僕を迎えた。開口一番に、魚がまだ泳いでいるような気がして気持ちが悪いの、と彼女はいつになく真剣な表情で僕に言った。

 不幸なことに僕はそのとき仕事でトラブルを抱え込んだところで、彼女のそんな虚言につきあうほど余裕があったわけではなかった。なにしろ彼女は僕の妻なのだ。お互いが支えあうべき存在。そのときは彼女よりを思いやるよりも、僕が切実に支えがほしかった。そしてこの場合、支えというのはやはり彼女の笑った顔だった。

 都合のいい、僕だけの彼女。彼女は、いつでも微笑んでいなければならなかった。

 だから僕は苦笑いしながらこんな台詞を投げつけた。「とっくに君が殺したのに、グロテスクな想像はやめないか」

 彼女は黙って、それから、ごめんなさいと僕に謝った。


 間もなくして、だが全く唐突に彼女は海に身を投げた。

 不幸な事故だったと誰もが口々に言う。珍しく僕の乗る船に乗りたがった彼女が、甲板から足を踏み外したのだ。さらに悪いことには、そのとき予測だにしなかった時化で僕らや仲間は皆船室に引っ込んで、かなり急いで岸に向かっていた。彼女が見当たらないことに僕は気付いていたが、そう広くない船で彼女をあえて探すことはしなかった。この揺れと雨の中で外に出る愚行など彼女は絶対にしない。そう思っていたから。


 彼女の所在不明、そして指先ひとつも見つからないままに死が確定したときに僕ははじめて彼女を上っ面だけで見ていたことに気がついた。一部でなく全て、東京湾を見てこれが地球上のほとんどを占める海の広さだと誤った認識を持つような。

 彼女が決して目を閉じることなくじっと僕に寄り添っていた年月はそう短くなかったのに僕は思いつきもしなかった。

 現状の不満?愛情の欠乏?多分、そんな言葉ではない。

 もしかしたら彼女は―――後々になって思いついたのだが―――ずっと狂えるきっかけが欲しかったのだろうか。と。

 優しい彼女が、優しい笑顔を捨てるために。


 「それが、お前のおばあちゃん」

 そうやっていつものように今日祖父がしてくれたむかしばなしは、珍しく自分自身の昔語りだった。理解できない部分も多かったが、わたしはやはり聞いた。

 「おばあちゃんはどうなったの?」

 祖父がついと顔を背け、古めかしいデスクの脇にあった地球儀にそっと触れた。皺だらけ、骨ばったまるで木の枝のような指先で弱弱しくくるくると回す。触れるか触れないかギリギリの線にある、指紋ひとつぶんのスペースで地球儀の摩擦に触れ、緩慢に回転が止まるまで祖父は黙っていた。

 「この海のどこかに、今でも泳いでいるかもしれないね」

 それから、そう呟いた。それゆえに彼は釣りをやめないんだそうだ。


 わたしは地球儀を見つめた。本当は海だらけなのに、海は陸地より少ないように見えた。

 顔も見ぬ祖母が抱えていたものとは何だったのだろう?

 満たされていることで満たされずに、もっと満たされる何かを求めた?

 その結果、彼女は海に今も漂っている。小さな魚だけをその中に抱いて。





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