* 鎖骨・ノースリーブ・ガラス越し *





大和


眼鏡、嫌いなんだ。
 奴は筆を動かしながら言った。
 普段はしてないだろ?でもさ、やっぱり絵を描く時はちゃんと見えないと。
 キャンバスから顔を覗かせあたしを頭から爪先まで点検するように見る。ふっと、無邪気な顔に真剣さが帯び、眼鏡越しの目が細められる。背筋がぞくっとするような冷たい視線。割と嫌いじゃない。
 ざっ、ざざっ、ざっ。
耳をすますと世界に少しずつ色がついてく。
毛束がピンと張られた布を撫でる。筆が布に触れる度、沢山の色、沢山の絵の具が白いキャンバスを埋めていく。其処に浮かび上がるのは、一体誰なんだろう。
 殺風景な雑居ビルの一室。全体的に汚れた部屋。
真ん中に置かれた古ぼけた椅子。そこに座るあたし。
いつもは冷たい灰色の壁。今日は暖かい色。小春の光が柔らかく部屋を満たしているからだ。
温もりが眠りを誘う。あたしは「眠気に負けたんじゃない」と自分に念を押してから、そっと目を閉じた。閉じた瞳の奥からは生活の音が絶え間なく聞こえてくる。すぐ下にある商店街から沸きあがる音たち。
車の音、八百屋が流してるAMラジオの音、おばさんの大きな喋り声。今まで気付かなかった、音の景色。
まだ少し遠い春の匂いがしそうで息を大きく吸い込む。けど鼻腔に吸い込まれたのは独特な油絵の具の匂いだけ。思わず顔をしかめる。
 悪いけどあんまり動かないでくれる?
 奴は本当にすまなさそうに言う。
ごめんね。退屈だよね。
そう思うなら初めから誘うんじゃない。言うかわりに大きく欠伸をしてやった。そしたら奴はくすくす笑って言う。
 もうすぐ終わるから。我慢して。
 あたしは黙って暇つぶしを探し始めた。けれど、大抵の暇つぶしはやってしまった事に気付く。
窓の外の電線は全部で8本。目の前の壁には赤い染みが3つ、青い染みが14個、緑の大きな染みが1つ。頭をぐしゃぐしゃにして、眼鏡を上げる。音程が外れがちの鼻歌。だからさ、ってよく言う。奴の癖のほとんど。部屋にある3つの時計の秒針の音のリズム。けれど、それももう終わる。
この木の椅子に座るのも、この黒いノースリーブをノーブラで着るのも、油絵の具の匂いを嗅ぐのも、もうすぐ終わるんだ。けれど、それがどういうことなのかあたしには良く分からない。分かってしまうのが何だか悔しいような気もして、あえて追求してない。
 あたしは怒った顔のまま空を見上げた。

ついこの間まで、世界には白と黒しかなかった。予備校サボって公園で鳩眺めてたしかめっ面のあたしに、奴はあの日声をかけてきたんだ。
 絵のモデルになってくれないかな?
 無邪気な笑顔でそう言われて、なんとなく断りづらくて、と言うか予備校サボるいい暇つぶしになると思って頷いてしまった。
どうしてあたしなの?
 あの時は聞けなかった。その後も聞けなかった。聞こうと思うと動かないでって言われるし。帰るときには大体忘れるし。何だかんだで最後の日になってしまった。白と黒以外の色が見れる最後の日。
でも、まいっか。
理由は聞きたいけれど、心につかえを感じる。得体の知れない息苦しさを感じる。
だから、まいっか。
 奴はキャンバスから顔を覗かせふっと目を細めた。いかにも目が悪いというような顔。小さな硝子の奥の切れ長の瞳。小さな小さな、硝子越しの異世界。
あたしの向こうの何をみているのだろう。あたしを通り越してあたしの向こう側を見透かされてる気がして。無性に腹が立つ。
 最後まで怒った顔してるんだね。
 奴は筆を動かし続ける。余計なお世話だ。誰のせいだ。奴は筆を動かし続ける。そんなに早く終わらせたいのか。奴は一度筆を握ると殆ど筆を止めることがない。喋りながらも集中しつづけているのがキャンバスを隔てていても分かる。その緊張感と奴ののんびりとした話し方のギャップにようやく慣れて来たのに。
 もういいよ。出来たっ。
 奴は嬉しそうに言った。これで、あたしの役目も終わりか。
立ち上がってブラをつけて、ジャケットを着て。そんなこんなしてると奴は茶封筒を持ってきた。一応礼を言う。そうだ、最後に聞いてやろう。
 あの、何であたしなんすか?
 パレットや筆を片付けながら奴は言った。
 鎖骨がね、エッチだったから。
 ・・・・馬鹿じゃねえか?奴は又、くすくす笑った。そして書いた絵を見せてくれた。
真っ白だったキャンバスには、いつの間にこんな世界が広がっていたんだろう。灰色の部屋の中で綺麗な女の子が空をぼんやり見上げてる。
白い腕、小さな胸のふくらみ、痩せた鎖骨。黒いノースリーブを着たあたしは白と黒なのに、全部が全部あたしなのに、どうしてこんなに綺麗に見えるんだろう。
 あんまり似てないっすね。
 むかついたから言ってやった。奴はまたくすくすっと笑った。
 これはね、今の君の向こう側に広がってる世界なんだ。君が知らない君なんだ。だから似てなくっても君なの。
 よくわかんない。
 無意識に口に出てた。だって、よくわかんないよ。あなたが恥ずかしそうに笑ってる理由も、この絵がどうしてこんなに綺麗なのかも、どうしてあたしがこんなにも泣きそうなのかも。わかんないから早足でドアに向かう。
 眼鏡、似合いますよ。
 眼鏡を外そうとしている奴にいってやった。知ってる。奴は唇だけで言った。それじゃあ。奴は言った。それじゃあ。あたしは行った。

ドアを開けると郵便配達の兄ちゃんとすれ違った。肩がぶつかった。けど、お互い謝らなかった。なんだ、変わんねーじゃん。なんも変わらない。何にも、そう、なんにも。
今日も日常。明日も日常。安心できる日常。綺麗でも何でもない日常。無色で、無臭で、無意味で、乾燥しきった日常。
外に出て初めて無くした事に気が付いた。白と黒だけの世界で、無くしたモノに気がついた。
始まる前に終わった。初めから終わってた?
・・・どっちでもいい。
さよならが言えなかったから、
 少しだけ泣いた。

ふっと見上げると梅の花が咲いていた。濃いピンクの小さい花。 奴が誉めてくれた鎖骨の上に冷たい春の風が吹いた。ありがとうなんて、言わないから。



武能 子音


 黒装束の物言わぬ人々が、白装束の彼女に、黙々と花を添えている
 線香の匂いがこの場を満たすのに、もうさほど時間はかからないだろう
 黒装束の女性が、パイプ椅子に座って項垂れている私を潤んだ瞳で呼んでいる
 気力を喪失していた私は、操られるように、もう動かない彼女の元へ歩を進める

 −綺麗だった
 元々露出を好まなかった彼女の肌は、病的でない程度に白く美しかったが
 今の彼女は、身に纏う死装束の色と同じくらいに白く塗り潰されていて…
 −まるで、雪に舞う妖精の様だった
 −綺麗だった とても

 彼女が好きだった薄紫色の花を添えようとした
 私の手が彼女に近づくにつれ、そこにある冷たさが、私をも冷やしていく…
 …私の手は凍り付き、彼女の身体から数cm離れた所から、動かす事が出来なくなっていた
 −そこには、目に見えない分厚いガラスが存在していた

 −言葉を発する事も出来ない 涙を流す事も出来ない
 私に唯一出来た事は、ただ、動かない彼女を…死んでしまった彼女を見詰める事だけだった
 ガラス越しに彼女を見詰める 無表情な私
 ガラス越しに私を拒絶する 無感動な彼女
 黒装束の人々は私の代わりに、嗚咽と、大粒の涙を零していた
 万能の『時間』でさえ、私の硬直を助けてはくれなかった

 −私は、彼女のことが好きだった
 同性という決して消せない真実でさえ宇宙の彼方に追いやれる程に
 私は彼女に『恋愛』という熟語の内の『恋』という想いを抱いていた
 ー決して口に出したりはしなかったけれど、私はその想いによって、私は彼女を幾度となく傷付けてしまっていた
 私は決して男性を彼女に近付けなかった
 彼女の恋に対して、いつも否定を続けた
 私は同性の者でさえ、彼女に触れる事を許さなかった
 私はいつも、彼女の傍に居た
 −傍にいて、彼女に重圧を与え続けていたー

 消極的で、気配りで、読書家で、頭は良いのにお馬鹿さんで、そしていつもブラウスのボタンをきっちりと上まで締めていた彼女…
 大学に入っても、サークルに入らず、バイトもせず、露出度の高い服は決して身に着けず、夏は必ず スカーフを首に巻いていた彼女…
 −彼女と私は、いつも、いつも、一緒にいた
 彼女が私の傍にいない事を、私は許さなかった
 彼女は私に何でも打ち明けてくれたのに、私は彼女を傷付け続ける理由すら打ち明けなかった
 彼女は積極的に生きたいと願っていたのに
 彼女は真剣に恋をしたがっていたのに
 …私は、彼女を縛り続けて、それで何を得られるつもりだったんだろうか…

 −償いも謝罪も、もう出来ない所に彼女は逝ってしまった

 −帰り道の歩道橋の上で急に立ち止まり、躊躇わずふらりと車道に身を躍らせて…

 全て私の責任だ
 打ち明ければ良かったのだろうか?
 叶わぬと知りながら告白して、振られて、私達はずっと気まずい思いを抱き続ければ
 彼女は死ななかったのだろうか?
 −今更…なにもかも今更だ
 私はこれからどうやって生きればいいのだろうか…

 回想を終え、解答の無い自問自答を繰り返す私の目は、相変わらず動かない彼女を映している
 ーふと、肩に大きな手が置かれた
 ぎこちなく振り向くと、そこには彼女の父親の姿があった
 腫上がった瞼の下の、未だ液体を留めている悲しい瞳が、私を見つめている
「…娘の事をそんなにも想ってくれて、ありがとう…」
「…貴女の責任ではないわ…あの子は、自分から…自分で選んで…」
 嗚咽が漏れそうになる口を必死に笑みで隠しながら、彼女の母親が苦しげに言葉を紡ぐ
 −私は、彼らからも彼女を奪ったというのに、どうして…

 動揺した私の手から、薄紫の花ー「都忘れ」がするりと抜け落ちた
 掴み取ろうとしたが、都忘れは私が越えられない障壁を容易くくぐり抜けて、彼女に落ちていく…
 −それは彼女の装束を掠めて、周囲の花と同化した
 行き場をなくした私の手は、やはり見えないガラスの前で止まっていた
 −なんとなく、花の軌跡を辿ってみた
 −花が掠めたのは彼女の右の合わせ
 −彼女が決して…私にさえ見せようとしなかった場所が、露わになっていた…

 生前、彼女は幾度か私に変な質問をしたことがあった
「夏はやっぱり、ノースリーブを着た方がいいのかな?」
「ハイネックとかタートルとか、スカーフとかだと変なのかな?」
 そんなことないよ、と私は問われる度とう答えていた
 スタイルが良く、顔立ちもとても良かった彼女のこと…
 そんな格好をしたら、今まで以上に邪魔な奴らが増えるのは明白な事だった
 私の打算的な答えを聞くと、彼女は不思議と安らいだ表情をして、私にこう言うのだった…
「ありがとう。こんな私の傍にいてくれて…」

 その時は、単に流行りや周囲とはかけ離れた服装を年中通している彼女の傍を、私が片時も離れなかった事に対しての礼だと思ったのだが…そうではなかった

 今、やっと解った 彼女の好きだった花のおかげで 私は彼女の最たる秘密を知った

 彼女の鎖骨は、でこぼこだった
 二つの鎖骨の間には、痛々しい傷痕が残っていた
 ー幼い頃事故で怪我をした、と言うのは彼女から聞いたことがあった
 ーそれが、こんなにもはっきりしたものだとは思いもしなかった
 ー彼女の恋愛に対する態度を、私は今、ようやく知ったのだ
 ー私が幸運だと思っていたその傷痕は、あまりにも生々しく、それを利用していた私を容赦なく責め立てた…

 気が付くと、私は微かに線香の匂いの残る静寂の空間に一人、取り残されていた
 彼女の葬式は、つつがなく終了したらしい
 ー私は、彼女を弔う事が出来なかった…
 彼女の傷痕を眼にしてからの記憶が全く無い
 例えそんな状態で焼香を済ませられていたとしても、私が彼女を弔えなかった事は事実だ
 ー情けない…最悪だ…私はどうしようもない馬鹿者だっ!
 そしてようやく、私は涙を流した
 嗚咽を堪える事も無く、大声で、無様に顔を覆って泣いた
 ちょっとはにかみながら笑顔を見せている彼女の遺影の前で 顔を覆って泣きじゃくった

「……………」
 誰かが何か、私に語りかけている
 しかしそれはただの事実で、荒れ狂っている私の心には届かなかった
「…………………………」
「………………」
「……………………………………」
「………」
 彼らは号泣する私を両側から支え、ゆっくりと歩き出そうとした
「いやっ!私はここにいるっ!謝らなくちゃ…謝れないけど、私は謝らなくちゃいけないのよぉっ!」
 添えられた手を振り払おうと、私は両手を振り回した
 しかしその手はあっけなく掴まれ、私は強引に彼女の前に引き摺られていった…

 ー両手を掴まれているから、顔を覆うことが出来ない
 ー眼を閉じればいいのに、彼女の微笑みから、眼を逸らすことが出来ない
 ーどうして笑ってるの?彼女は、どうして笑っているの?
 ー写真に写る彼女の姿は、私と出会ってからの姿なのに…
 ーどうして?

「君のおかげで、あの娘はあんな風に笑っていられたんだよ」
 唐突に私の五感は回復し、微かに、優しい声が私の耳と心に届いた
 ゆるりと振り向いた私を見て、彼女の父親は微笑んで私の両手を解放した
「あの笑顔は、君があの娘の側に居続けてくれたから、生まれたものなんだよ」
 彼はそう繰り返す
 だけど私には信じられない
 その言葉を心から信じることが出来れば、私はきっと楽になれるのだろう
 だけど私は…彼女を縛り続けていたのだ
 そんな私が、彼女の本当の笑顔を引き出せたはずが無い…
「…信じられないのかい?」
 変わらず、優しい微笑を浮かべたまま、彼は問う
 俯いて肯定を示す私の腕を取って、彼は続ける
「君に見せたいものがある。もしかしたら、君は少々不快な思いをするかもしれないが…しかしどうしても見てもらいたい。あの娘の、本当の気持ちを知ってもらいたいんだ…それはきっと、あの娘にとって最良の供養になると思う」
 ーそうだ、私はまだ、ちゃんと彼女の供養をしていない
 彼女が死んでしまったことは、受け入れたく無い…
 しかし彼女は死んだのだ
 ー心からの供養と、謝罪をする、最後のチャンスかもしれない
「…見せてください」
 彼の眼を見据えて、はっきりと言った
 頷いて、彼は葬儀場の奥にある、小さな和室へと私を導いた

 ーそこで渡されたのは、鍵の付いた日記帳と、『M』と刻まれた小さな鍵だった
 私は彼女の両親が頷くのを見てから、そっと鍵を差し込んだ…
ー『M』というのは私のイニシャルだ…だからといって、私の事が書かれていると断言できるほど、 私は彼女に対して自惚れてはいない
 逸る気持ちを抑え、私は先ず自分の心に言い聞かせてから、日記を読み始めたー

 そこに書かれていたこと、全部をここに書くことは出来ない
 読むだけで胸が張り裂けそうになる程、狂おしく切ない、彼女の心…
 書いてしまえば、私はまた無様に、聞き分けの無い子供のように泣きじゃくるだろうから…
 この、一人しかいない家の中で
 なだめてくれる人もいない、この家の中で…
 だから私は、出来るだけ簡潔に、さっぱりと、彼女の心を少しだけここに写そうと思う…

 彼女は傷痕を隠すため、常に肌を露出しない服装をしていた
 周囲からは箱入りのお嬢様だとか、絵に描いたような優等生だとか思われていたらしい
 私と彼女が出会ったのは、高校二年生…17歳の時
 それまでは、虐めにまでは発展しなかったものの、彼女はとにかく孤立していた
 昼食を共にする者は愚か、気楽に言葉を交わす者すらいなかったらしい…
 かなり押し付けがましかった私から逃げようとしなかったのは、最初はそんな事情からだった

 彼女と私が常に行動を共にし始めた頃は、彼女は私の事を苦手としていたらしい
 ー当たり前の事なのだが、彼女の字ではっきりと記述されているそのくだりは、正直、かなり胸が痛んだ…
 しかし大学に進んでからは、打って変わって私に対する描写がひどく好意的なものになっていた
 ー彼女は勘違いをしていたのだ
 私が彼女の周りから人を遠ざけているのを、「自分を守ってくれているのだ」と彼女は思ったのだ
 ー守った、と言う表現は全く正しくない
 私は単に…いや、話を戻そう
 彼女の服装を肯定した事が、彼女が私に信頼を抱き始めるきっかけとなった
 恋愛に対し、「生きてく為に絶対に必要だとは思わない」
 友人を作る事に対し、「私だけでは不満なの?」
 と答える私に、彼女は安らぎを感じていたという…
 そしてー
 そして…あぁなんということだろうか…
 彼女は私に、私が彼女に抱いていたのと同じ感情を抱き始めたらしい
 ーそういえば、彼女は死んでしまう二ヶ月ほど前から、服装・恋愛・友人に関する以前と全く同じ質問を繰り返し私に問うていた
 ーあれは…私の、彼女に対する気持ちを知りたかったから…だったのだろうか…

 そして彼女が死んだ一週間前から決行の前日までの日記…
 そこには、私に対する彼女の様々な感情が記されていた
 私が彼女の傍を片時も離れないことからの期待
 同性という消せない事実ゆえの不安 絶望
 気持ちを伝えた時の私の反応のシミュレーション…空振りに終わった時の自分の将来…
 その想いの結末には、明らかにマイナスのものばかりが存在している事に気付き、彼女は苦しんだ
 ー彼女は、私のようにずる賢くはなれなかったのだ

 このままでいるのが辛い
 だけど離れるのは絶対にいや
 告白だってきっと受け入れられない…
 私はここから動けない
 彼女が好き
 こんな気持ち自体が間違っていたのだ…
 けれどもうこの想いを隠す事も消す事もできはしない…
 どうすれば…どうすれば…
 ーそうだ…
 ……私が死んだら、彼女は私の事を忘れない 彼女は優しい人だから……

 そして彼女は死を選んだ
 歩道橋で急に立ち止まった時も
 手すりを乗り越える瞬間も
 落ちている間も
 死に行く直前まで…私の事を見つめながら、彼女は死んだのだ

 考えてみれば、彼女はなんて馬鹿なことをしたのだろう
 言ってくれればよかった
 そうなれば、私は微塵も悩まずに彼女に答えただろうに…
 しかしそれは責任転嫁というやつだ
 そもそも、私が回りくどい事をした所為でこんなことになってしまったのだ
 ーだが、それを悔やむのはもう無駄な事なのだ
 ー彼女は死んだ 不甲斐ない私を想うがゆえに死んだのだ
 後を追ったりはしない
 私に出来る事、私にとっての最良の供養が、彼女の日記に描かれているのだから

 私は彼女を想い続ける この先、彼女以上に誰かに恋をするなんて絶対にありえない
 忘れない 忘れられる筈が無い
 皮肉な事だが、彼女が死んでから初めて、私達は晴れて互いに想い合っている事を知れたのだ
 忘れない 想い続ける 愛し続けてみせる…絶対に、絶対に…

 決意を込めた筆を置くと、いつの間にか私の眼から涙が零れていた
 涙は頬を伝い、書き上げた文字を濡らした

 私は涙を拭い、日記帳を閉じた
 小さな鍵を手に取り、ゆっくりと鍵をかける

 そして私は
『S』と刻まれた小さな鍵を飲み込んだ




sai


 閉め切った部屋。
 真夏の温度と湿度が彼の体力を奪っていく。
 思いついたように部屋に来ては、まだ幼い彼をを力任せに叩き、ついでに餌を与えていく彼の母親。
 どんな食事も今は血の味しかしないのだろう。
 最も、あの母親が作る餌の味は最低だろうから鉄の味の方がマシだろうけど。

 彼は間違いなく不幸だね、なんて冗談ぽくひとりごちてみる。
 生かされもせず、殺されもしない。
 いっそ殺してあげればいいのに。

彼の母親は今日もまた、理屈も論理もなにもあったもんじゃい、自分には理解しがたい 自己の感情だけをわめき散らしている。
 彼は何も言わずに、ただ目の端で彼女を捕らえていた。
 彼女の不幸は全て彼に原因があるらしい。
 彼が居なくてもあなたは十分不幸だと思うけどね。
 まぁ、極めつけはやっぱり「生むんじゃなかった」って言われたらさ、
 ・・・・・・可哀想に。
 掃除機を喉に突っ込まれるよりも、煙草の火を押し付けられるよりもずっとずっと
 痛いんじゃないかな。

 まあそのあとは、大抵彼は気を失うまで殴られて終わり。
 残念なことにいつも彼は意識を取り戻してしまうから、始終ふさがらない傷にただ黙って涙を流している。
 自閉症気味・・・なのかな。まぁ、なるわな。こんな環境で正常でいろって方が無理か。

 あ、彼が珍しくこっちを見てる。
 だけどカーテンがほとんど閉まっているから、自分の存在はたぶん気付かれて無いだろう。
 布の隙間から彼を覗くとき、自分は得体の知れない怒りと、恍惚とした、まるでホラーを見るような恐怖を感じる。
 残酷で、非道なようだけど、僕は、只、見ているだけ・・・見ていたいだけ。
 
 ------

 ふぅっ。
 蹴飛ばされて箪笥に肘を擦って出来た傷口に息を吹きかけた。
 開かない窓と薄っぺらなカーテンを見やると、ふと、その向こうで何かが動いた。

 あれ・・・?
 窓の外に、誰かがいる?
 カーテンの向こうで頭がひとつ、こっちを伺っている。
 
 覗いていたの?

 ガラス越しに、母親に殴られている僕を、まるで檻の中の動物を見るように。

 それこそ毎日僕は甚振られている。
 そして、ふと気がつくいたんだが、一体いつからなのか判らないが、いつも窓の外では監視されているようだった。
 窓に貼りつくようにしてずっと動かない。
 時々顔を背け、何事か呟いている(ような気がする)。
 貴方は誰?
 一体何を見ているの?
 僕を助けてはくれないの?

 ------


 ある暑い日、母親が夏らしく水色のノースリーブを着ていた。
 自分は思わず目を凝らして彼女を見ようとする。
 言っては何だが、彼の母親は綺麗だ。
 その綺麗な母親がてに携えていたのは、大きくて、鋭利で、新品の高枝鋏。

 いや、まさかとは思うけど、それ、何に・・・・・・?  
 
 あ、、、っ 、
 ――――!!!!

 ------

 彼女は何も言わずに、だるくて動けない僕の肩に鋏を開いてあてがった。
 刃は何かの粘液で濡れていてひんやりと冷たく気色が悪かった。
 僕は声も出せず、必死に窓の外に目を動かした。
 カーテンの向こうにいるはずの傍観者に向かって叫んだつもりだった。

 いない?

 ぶつりと嫌な音がして、右腕に痛みが走った。
 それから刃がじりじりと食い込んで最終的には鎖骨の向こうがばっさり切取られた。
 僕がノースリーブ。
 今度こそ死ぬなと思った。
 だけど、そのとき、
 僕の本能が、脊髄が、僕の身体そのものが「死」を激しく拒否した。

 僕はがむしゃらに身体をバタつかせて、飛び起きた。
 とにかく母親から逃げようと必死になってボロボロの肉体を動かした。
 あの窓の向こうにしか、僕の逃げられるとこなんてないんだ。
 僕を助けて――――。

 倒れこむようにカーテンを引き裂いて、窓を開けた。
 母親が驚いたように何事か喚き、それから僕を捕まえにかかった。
 でももう遅い。僕は、窓の外・・・何百時間ぶりかの外の空気を身に浴び、手を伸ばした。

 大きな手が差し出されたと思ったのは、錯覚だったのだろうか。
 僕が掴んだのは、ざらざらして、太く逞しい茎。
 ただ空に向かってすらりと伸びているのは、茎だけ。
 太陽と僕の目に晒された鋭利な切り口からは、行き場を無くした栄養の水がもうすこしで溢れそう。
 そして斬首のように地面に転がった、大きくて鮮やかな黄金色の向日葵。

僕の腕からは、同じように、ただ赤い血が迸っている。

後ろには絶望、前には、夏の残骸。









:補足:
もけさまからリクエストいただきました。
セクシー3題で当初どうしようかと思いました(笑
ありがとうございました☆




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