* ツバメ・浴衣・見えない空 *





大和


「ん?悪いけどもう一回言ってくれないかな。」
ちゃんと聞き取れなかった。
それはここがどこの居酒屋でも同じように意味なくうるさい事もあるし、 酔いがまわった彼女の呂律が怪しくなっているせいでもあるだろう。
“卯月の女”はグラスを置くと、僕を睨んで。
「だからぁ、ここにいる三人でお話を作るってのは、どうですか?」
そう言うと彼女は薄い唇を横にひっぱっる。それが笑顔だと気付くのに少し時間がかかった。 アップに纏めた髪が幾筋かほつれ白い頬にかかる。それはだらしがないと言うより艶かしいと言う形容詞が似合うように思った。
「あっ。それいいですね。楽しそうかも〜。」
右耳に刺さる声。甲高い、けれども嫌味の無い。
その声の主は、左に座る、白い浴衣の女とはタイプの違う、童顔の女だ。黒をベースとした地味な服装。 ぽっちゃりとした体つき。豊富な、茶色に染めた髪。中学生といっても十人中八人は何の疑いも持たないだろう。 笑うとさらに幼く見える。
「ツバメさんはどうですか?こういうのお嫌ですか?」
“フリッガ”が太くアイラインを入れた目で聞く。
そうだなぁ。目の前の品書きを目で辿りながら考える。
「・・・構いませんよ、僕は。」
考えたあげく出た答えがこれだ。嫌ではない。それだけの理由。
すぐ後ろでは若い店員のハイヨロコンデーという馬鹿にでかい声が聞こえる。 何かの呪文のよう。隣の隣の席では中年のサラリーマンと思しき男がなにやら歌を歌い始め、 その部下だろうか、若い男が媚びと苦笑いをない交ぜにしたような笑顔を浮かべ手拍子をする。 グラスのぶつかる硬い音。薄暗い暖色の照明。ふと、自分がどこにいるのかを見失う。
「うふふ、じゃあ決まりね。えーっと、じゃあ、まずどうしよう。“フリッガ”さんはどんな話にしたいですか?」
「うーん。そうだなぁ。」
まだ若干冷たさの残るビールを舐めた。飲み始めてからずっと、どこか居心地の悪さを感じていた。 初対面だという事もあるだろう。女二人は前から何度もあっているみたいで、周りだけで話がどんどん進んでいく。 付いていけない僕は自然と空のグラスばかりを増やしていた。
“卯月の女”に話を振られ“フリッガ”が考え込んでいる。 腕を組み、目を閉じて唇を微かに突き出すその姿は実家で飼っているハムスターを連想させた。 彼女は三十秒ほど考え込むとぱちりと目を開けて。
「やっぱり私は青春モノがいいです。一番好きなジャンルってだけなんですけどねぇ。 考え込む必要なかったかな。“卯月の女”さんはどんなのがいいですか?」
そう聞かれ、今度は“卯月の女”が考え込む番だった。
「そうねぇ。私はほら、ミステリー一辺倒だから。ってそんなの言わなくても分かってるか。 うーん、でも、そんなの即席じゃあ作れないわよね。うん、だからあたし“フリッガ”さんの青春モノでいいですよ。」
「僕もそれでいいです。」
聞かれる前に答えた。もう意味もなく考え込みたくなかった。 そう言うと“フリッガ”は嬉しそうに笑うと半分以上残っていたジョッキを空にする。 それを目ざとく見つけた脂ぎった中年の店員が追加の注文を取りに来る。僕と“フリッガ”は飲み物の追加を頼んだ。 “卯月の女”のグラスにはまだ半分以上、美しい色の液体がグラスを満たしていた。 彼女は会釈で店員に合図する。愛想のいい店員が消えると。
「じゃあ、ジャンルは青春モノって事で決まりね。 ジャンルはあたしが決めちゃったから主人公とか他の事は二人で決めてくださいよ〜。」
僕と“卯月の女”は思わず顔を見合わせた。そのタイミングがあまりにも合いすぎていて、思わず噴出してしまった。
「やだー、もう、タイミング合いすぎ。」
「あはははは。」
笑いながら、やっぱり、僕はどうして自分がここにいるのか把握出来なかった。 イラッシャイマセー。大きな声で客を迎える店員たち。酔って大きな声で喋り立てる若い女のグループ。 両側で笑う女。・・・笑う僕。タバコの煙。光ではなく影を演出する照明。通り過ぎていく食べ物の匂い。
結局どこに居たって、自分の位置を捕まえる事が出来ずにいる。周囲の風景だけが変わって行き、 取り残された事に気付いて慌てて追いかける。でも、今はそんな事すらどうでもいいような気がする。 なのに、僕の頭は勝手にここに至るまでの道筋を辿り出していた。 哀しいかな、息を切らして周囲に追いつこうとするのは僕の習性になってしまったようだ。
「って感じでいいですか?ツバメさん。」
急に音が戻って来た。眠っていた、わけではなさそうだが。そうだ、どうしてここに来てしまったのかを考えていたんだ。 酔いがまわってきたのだろう。ぷつりと途切れる空白の時間がそれを物語っている。 それに、そうだ、そんなに考え込む必要も無いのだ。
ある小説家のファンサイトの掲示板で知り合った者同士のオフ会。 もともと参加するつもりは無かったのだけれど、 その掲示板を紹介してくれた会社の同僚が人数合わせのために代わりに行ってくれと頼んできたのだ。 僕もたまに書き込んでいたからいいのだけれど、まさか僕含め三人だけだとは思わなかった。 本当はもっと集まる予定だったそうだ。結局いつもこんな感じだと“卯月の女”は言っていた。
そういえばいつからだろう。ハンドルネームで呼び合うのが自然になったのは。何故だかこの二人の女たちは本名を明かそうとしない。 だから、僕もハンドルネームの“ツバメ”で通してる。こうして間近に人間を感じているのに現実感を感じないのはそのせいだろうか。
「え?あぁ。いいですよ。」
質問の内容も分からぬまま流れに乗って返事をしてしまった。
僕の顔を覗き込む浴衣の女にドキドキしながらそう言うと両脇の女たちはクスクスと笑い出した。 クスクスは次第に大きくなり仕舞いには腹を抱えて笑いだした。
「本当にいいんですか?主人公はツバメさんであたしたち二人でツバメさんを取り合うって話ですよ?」
「は?」
いつの間にそんな話になっていたのだろう。なんてリアクションしていいのか分からずに僕は「参ったなぁ」なんて苦笑いを浮かべる。
「まぁいいじゃない。ツバメさんの了解も得た事だし。さぁ始めましょうよ。」
 “卯月の女”は姿勢を正すとまずは私から、と言って話し始めた。
「舞台はね。・・ある海辺の高校。学区の中でもまぁまぁ頭のいいほうの進学校。そこに通うツバメってあだ名の少年が主人公。」
彼女の凛とした透明感のある声でそう言われるとその情景が目に浮かぶようだった。 うるさい居酒屋の一角、僕の頭の中に緑が豊かで静かな、田舎の景色が広がる。 それは、自然な流れで僕の故郷の景色と重った。海と山に挟まれた、小さな町。18才までの時間を過ごした懐かしい町。 いい思い出も、思い出すことを封印した、忌まわしき過去もその町に詰まってる。
「じゃあ、次は私の番ね。」
 “フリッガ”がジョッキを置いて少し考え込む。
「そうだなぁ。・・・ツバメ君には彼女が居ました。少しぽっちゃり系の、 でもそんなの全然気にならないくらいに可愛い女の子です。彼女の名前は空といいました。」
彼女の甘い声はどこかおとぎ話をするみたいで、田舎の高校で何が起こるのか、僕は人事のようにわくわくした。 彼女の笑顔も、僕におとぎ話を連想させる要因かもしれない。
「えー、いきなり自分が彼女なのー?ずるいなぁ。」
浴衣の女が不満の声を上げる。けれどもそれは半分笑いに変わってて、特に怒っているようではない。
「えへへ、いいじゃない。お話なんだから。はい、次、ツバメさんですよ。」
 “フリッガ”に促され、僕も話を作らなきゃいけない事を思い出す。そうだなぁ。考えるよりも先に言葉がすべり落ちた。
「少年はまぁまぁそれなり、幸せに高校生活を送っていました。可愛い彼女。静かな環境。彼の夢は教師になる事で、 その夢も少年の成績をもってすれば叶わない夢ではありませんでした。 しかし、彼には決して誰にも語ることのできない過去があったのです。 それだけが彼の心に、まるでコップに一滴の墨汁をたらすように、暗い影を作っていたのです。」
予想外に落ち着いた声で、一息に喋っていた。女たちは少し驚いた顔で僕を見ている。
僕はグラスを傾ける。
頭の中に広がる故郷の風景。 そこから滑り落ちたのは紛れも無い、あの日の僕だった。 ただ少し違うのはあの日の僕は高校生ではなくまだまだ幼さの残る中学生だ。
手元を見つめる。目が霞んで少しぼやけてはいるけれど、あの日の傷跡は生々しく残っている。右の手の甲。 小指の付け根から親指の根元まで。弧を描き刻まれている。
なんだか、少しだけ自虐的な気分になっていたのかもしれない。 誰にも語る事の出来ない過去とやらが心をぎゅっとつねる。
「いいですね。うん。なんだか面白くなってきた。」
僕自身の過去だとは気付かず“卯月の女”は楽しげに言う。一気にグラスに残っていた酒を飲み干す。 グラスを空にした次の瞬間、店員を呼ぶボタンを押していた。 少し遅れてやって来た店員に、彼女は聞いたこともない名前のカクテルを頼んだ。
隣の席から流れてきた煙草の煙が僕らの視界を優しく遮る。“卯月の女”は解れては広がって拡散していく煙を目で追いながら、 ぽつりぽつりとお話を紡いでいく。
「じゃあ次は私か。そうね・・・。幸せに暮らすツバメくんの元にある日見知らぬ一人の女性が近づいてきました。 彼女は白いワンピースがよく似合う切れ長の目をした大人の女性です。うーん。そうねぇ。 ・・・彼女はツバメくんの目の前に立つと唇を耳元に寄せてこう言いました。『私はあなたの過去を知っている。』 そう言われたツバメくんは驚きました。だって、こんな田舎に彼の過去を知っている人なんて居るはずがないんですから。 彼は後で知ることになります。その女性とは新しく東京から赴任してきた学校の図書館の司書だったのです。」
僕の心臓は跳ね上がった。
白いワンピース。その、たった一言のために。
学校。海。白いワンピース。
白いワンピースの裾の部分には、花が咲いたような鮮やかな赤い染み。
まさか、他人の口からそのフレーズが飛び出すとは。それらは僕の記憶の中に鮮明に残る物だった。
顔が熱くなる。心臓が嫌な音を立てて要らない自己主張を始める。
それは、僕だけしか知らないはずの風景だった。薄暗い照明の元、右手の傷が鈍く光った。 同時に、あの日切り裂かれた皮膚の痛みが蘇る。光と痛みに誘われて、僕はそう遠くない過去、 絶え間なく聞こえる波音に引き込まれていった。




海を見ていた。
水平線は緑の山々とひなびた町並みに遮られながら、目に痛い小さな光を煌かす。僕は下校の時、間近に見る海より、 こうして遠く、学校の図書室から見る海のほうが好きだった。
小さな海。あの海の向こうには何があるのだろう。とても広い世界が広がっている。漠然と空想だけが膨らむ。 そっと、溢れ出す空想に心を乗せる。
地平線をぐるっと見渡せる、若草色に覆われた大地。乾いた風が止むことなく吹き続ける。
高層ビルが立ち並ぶ街並。うらぶれた裏通りには悪が蔓延り、そうと気付かず足を踏み入れるものはだれかれ構わず取り込まれる。 血と欲望が肯定された世界。しかし表通りには光が溢れている。矛盾と言う調和。
濃い緑で覆われたジャングル。原色の蝶が鱗粉を撒き散らしながらひらりひらりと舞う。
世界が、空間が、入れ替わり立ち代り小さな海の向こうに現れる。まるで、蜃気楼のように。
「ねぇ、人の話ちゃんと聞いてるの?」
現実に引き戻され、声のした方を見る。そこにはサチ子のふくれた顔があった。
「え、あ、ごめん。なんの話だっけ?」
「だからぁ、どうして私たちは生きる事を義務付けられてるんだろうって話。」
「えぇ?・・・あぁ。」
少し考えてから。
「それって、どうして僕たちは生まれてきたんだろうってこと?」
サチ子は黒目がちな瞳を大きく見開いて、ちょっとだけ顎を引いた。
最近分かった彼女の驚いた時のリアクション。何か驚かすようなことを言ったのだろうか。 それからサチ子は下を向いて考え込んでしまった。
窓から強い風が吹き込んだ。少しだけ海の匂いがする柔らかい風。図書室特有の古い本のすっぱい匂いをほんの一瞬かき消す。 風に誘われてサチ子の短い黒髪が揺れた。白い光がきらり、零れた。空想の世界よりも強く、重い光。
取り残された形になってしまった僕は仕方なく目の前の丸いほっぺたを眺めた。考え込む横顔。眉をよせる難しい顔。 全体的に幼さが残る容姿には似合わない、知的な、暗い瞳。
短い髪の毛が微かにかかる細い首筋。半袖のワイシャツの下の、硬さの残る肩。 遠慮がちに伸びる二の腕は窓から注がれる光を吸い込んで淡い白に光る。腕の先にある小さな手。小指が少し曲がっている。 曲がった小指を意味なく触るのが彼女の癖だった。
サチ子と言う存在から滲み出る、陰りのある硬い空気。彼女の近くに居るとわけなく緊張する。 彼女にそんな印象を持つのは、きっと僕だけだろう。
サチ子は明るくて人付き合いもいい。誰からも慕われた。生徒会長を務める誰もが認める優等生だ。 今僕の前にいるのは、そんな彼女の影の部分なのかもしれない。何故だか僕にはこんな抽象的な話を吹っかけては、 他の人には見せない暗い目の光をちらつかせる。図書室で本を読む僕を見つけてはこうしてよく話しかけて来た。
「裕介ってたまーに鋭い事言うのよね。いつもはふにゃふにゃしてるくせにさっ。」
怒った顔のままで言う。けれども、それはどこか甘えた子供みたいに見えた。
「鋭いかなぁ。普通だと思うんだけど。」
むっとしたままの顔で僕を見つめる。睨んだ顔は次の瞬間にはいつもの彼女の顔に戻っていて、 ふぅっと一つ、ため息を吐いた。
「そーいうとこが腹立つのよね。ったく。」
又、ほんの少し怒ったような顔になる。
そういえば、皆の前ではいっつも笑顔なのに、サチ子の怒った顔ばかりみているような気がする。 それが嫌かと聞かれれば、僕はどう答えるのだろう。
窓から差し込む光がだんだん斜めになって、徐々に暖かい色に近づいていく。夕暮れが迫っているんだ。 もう一度視線を海のほうへやる。まだまだ沈むには早すぎる、眩しい黄色い太陽が水平線の上に浮かんでいた。
「どうして生まれてきたんだろう、か。私たち、どうして生まれてきたんだろうね。」
僕に問いかけているのだろうか。判断に困るような、呟き。もう一度サチ子に視線を戻す。瞬間。サチ子の伏目がちな目が光った。 ような気がした。しかしその光はすぐに吸い込まれて、いつもの、皆に見せる笑顔に戻る。
その笑顔は、いつも通りの笑顔のはずなのに。
どうしてだろう。胸の真ん中あたりに大きな塊が競り上がってきて、息が出来なくなった。
沈黙が生む気まずさをを、吹き込む風がどこか知らない場所へと優しく運んでいく。
僕らはどうして生まれて来たんだろう。母親と父親が出会ったから?じゃあどうして母親と父親は出会ったのだろう。 その親は?親の親は?偶然の連なりが僕らを産み落としたのであれば、どこにも意味など無くなってしまう。
最終下校を告げるチャイムが鳴った。
何か言わなくちゃ。
サチ子の顔を見ると、彼女もまた、あの、遠い小さな海を眺めていた。聞こえない波音に耳を澄ますように、 遥かな遠くを眺めている。触れたら、そのまま崩れていってしまいそうだった。 なんの表情も浮かべていないサチ子は満ちてきた潮に侵食されていく砂の城のようだった。 悲しみと、それを無条件に受け入れる諦めが混在している。何がサチ子をそんなカオにさせているのだろう。 僕と彼女の間に横たわる幅一メートルもない机が、図書室を満たす空気が、今まで感じたことの無いくらい大きく、希薄な物に感じた。 手を伸ばしても届かない気がして、気付けば強く拳を握りしめていた。
結局その日、僕は何も言えなかった。




「ねぇえ、ツバメさん。この後、どうしたらいいと思いますかぁ?」
“フリッガ”の甘く柔らかい声が僕を緩やかに現在へと引き戻す。 音が徐々に耳に届くようになり此処がどこだかをゆったりとした足取りで思い出す。
僕は、首を振った。それだけで“フリッガ”には伝わったようだ。彼女は長く息を吐き出すと同じ質問を“卯月の女”にした。 けれども“卯月の女”からも同じような返事が返ってきたようだ。
蘇った過去があまりにも鮮やか過ぎて、体の表面が微かに震えている。けれどもそれは僕にしか分からない程度のもので、 二人の女には気付かれては居ないようだった。時計を見る。まだ一時を少しまわったばかりだった。
「新しい登場人物とか出して見たら?」
唐突に“卯月の女”が言った。
「あ、それいいですね。じゃあ・・・ツバメくんの友達でも登場させちゃいましょうか。」
「どうせなら親友、とかの方がよくないですか?」
まとわり付いてくる嫌な空気を断ち切りたくて、僕は言葉を発する事で気分を変えようとした。 店員の馬鹿でかい声が聞こえる。もう、あまり気にならなくなってきた。何故だか一瞬二人の女達は動きが止まった。 僕が発言するのが珍しかったのだろうか。
「そう、ですね。ツバメさん冴えてる。うん、そうします。」
“フリッガ”が言う。何故だかぎこちなさを感じた。
「あたしトイレ。」
そう言うと“卯月の女”は席を立った。“フリッガ”も沈黙している。
二人の女の声が途切れると、僕は急に肌寒さを感じた。此処だけ冷房が当たっているのだろうか。 それとも酔いが醒めてきただけだろうか。周りを見渡す。 どこの客も酔いがまわって来たようで店全体が弛緩した空気に満たされていた。
サチ子は、どんな風に笑ったっけ?
さっきまであんなに鮮明に思い出せていたのに、今はサチ子がどんな顔をしていたのかすら思い出せなくなっていた。 そう、まるで煙草の煙に遮られるように輪郭がぼやけてしまっている。
此処は、あの場所じゃない。
ゆっくりと頭を振った。けれども僕の頭はぬるま湯を浸した脱脂綿が詰め込まれたようで、重く、生暖かい。 過去の記憶は頭の周りに漂ったまま離れてくれはしなかった。
「ツバメさん、大丈夫ですか?」
“フリッガ”のやさしい声。彼女の顔を見ると心配そうな目でこっちを見てた。
僕は無言で微笑んだ。大丈夫。そう言えば嘘になるから。
「もう飲まないほうがいいですよ?」
“フリッガ”も心配そうに微笑んだ。僕はなんだか少し申し訳ないような気分になった。女の笑顔は苦手だ。 無意識に目をそらしていた。
それから、沈黙が僕らを覆った。何かで満たしていないと結局、僕は過去に囚われてしまう。 僕は何か一つでもあの頃の事を思い出そうと記憶をめぐらした。けれども過去の映像は紙芝居のようにじれったく捲られる。 そして、記憶の一つ一つは全てに靄がかかっている。今まで封印しようとしてきたからだろうか。 思い出すことの無い記憶はどんどん風化していく。
「あ〜ぁ、“卯月の女”さん優しいなぁ。あのね、実は昔親友と恋人取り合ったことがあったんですよ。」
突然の告白に驚く。けれども“フリッガ”はそんな僕にはお構いなしで喋り続ける。
「別にね、それで喧嘩したとか言う事は無かったんですけどね。なんかそれから上手く行かなくなっちゃって。 それ“卯月の女”さんに話したことがあったんです。だからきっと彼女、席外したんじゃないかな。」
“フリッガ”はほんの少し眉を寄せて笑っていた。
「それは、なんかすいませんでした。」
頭を下げると“フリッガ”は大げさに首を振る。
「ツバメさんのせいじゃないですよ。それに、あたしも今はその子とたまに連絡取ってるし、 仲直りだってずいぶん昔にしたんですよ。ただ、“卯月の女”さんってこういうトコ優しいなぁって思って。 ごめんなさい、変な話しちゃって。」
それから“フリッガ”は一人でふにゃふにゃ笑っていた。何がそんなに楽しいのか分からなくて、 ただそんな彼女を眺めていた。
そうこうしているうちに“卯月の女”が戻ってきた。
「どう?お話は思いついた。」
細い腰を小さな木の椅子に乗せると明るい調子で聞いた。
「そうですねぇ。お話の続きしなきゃですねぇ。」
“フリッガ”も明るく答える。さっきのぎこちなさをかき消すように二人して冗談を言いながら笑い合ってる。 弛緩しきった店の空気に埋没していくように緊張が和らいでいく。笑いがひと段落すると、じゃあ、 そう言って“フリッガ”がお話を再会させた。
「ツバメくんには、親友が居ました。ダイチくんと言うツバメくんとはタイプの違った快活な少年です。 彼は空ちゃんの幼馴染でもありました。三人はとても仲のいい友達でした。 しかし、その関係はあの白いワンピースの良く似合う女によって壊されてしまったのです。 白いワンピースの良く似合う女は、空ちゃんとツバメくんの関係を知りました。 そして意地悪するみたいに空ちゃんの前でツバメくんと仲良くするようにしたのです。 なんとなく察した空ちゃんはダイチくんに相談します。するとダイチくんは話も良く聞かずにツバメくんの元に行ってしまいました。 勘違いしたままのダイチくんはツバメくんがいくら誤解だと言ってもきいてくれませんでした。 そして怒ったダイチくんはツバメくんを殴って、帰ってしまいました。実は、ダイチくんはずっと空ちゃんの事が好きだったのです。 どうにも感情を抑え切れなかったのはそのせいでした。」
物語の中のツバメは僕の過去とは関係の無い、セオリー通りの物語を辿っていく。 少し寂しい感じもしたけれど、それよりも大きな安心感を与えてくれる。
「また自分がもてちゃうんだ。ずるいなぁ。」
“卯月の女”は少し腐って酒を飲む。
「え〜、いいじゃないですかぁ。お話の中でくらい。もてたいんですよぉ。」
甘えた声言うが、“卯月の女”は僕にも分かるくらい不満そうだった。
「まぁいいけど。」
全然よくなさそうに言う。
「じゃあ次、ツバメさんですよ。殴られた後のツバメくんはどうなっちゃうんですか?」
一瞬気まずくなりかけた空気を散らすように元気良く“フリッガ”が聞いた。不機嫌そうな“卯月の女”を横目で見つつ考える。 誤解されたまま親友に殴り飛ばされたら、僕ならどうするだろう。
「そうだなぁ。ツバメは、親友に殴られたまま殴り返す事も弁解する事も出来ずにそのまま親友が去っていくのを見送りました。 自分の過去を知らない人間に何を言おうと嘘になる。嘘をつくのは嫌だったから。 それに、ツバメは親友が自分の彼女に思いを寄せているのも知っていたなんだ。だから余計に、ツバメには何も出来なかった。 そして、それとは関係なくツバメには白いワンピースの女を遠ざける事が出来なかったんだ。 過去がバレてしまう事よりも、そんな事までして自分に関わってくる人間に冷たくなんか出来なかったから。」
あの頃の僕には親友なんて居なかったけれど、もしあの頃の僕がそうされていたら何もできなかったに違いない。 僕にお話を作る才能なんてないから、やっぱり僕の行動がそのまま物語りになってしまう。
「それって逃げてるだけじゃないの?」
鋭い声。“卯月の女”がこっちを睨んでる。なんとも言えなかった。 けれども「お話だから」で済ませる事は出来なさそうだ。
「・・・確かに逃げてるだけかもしれないけれど、戦う事の出来ない人間だってこの世には大勢いるんじゃないのかな?」
何とか言葉にしてみたけれど。 “卯月の女”は納得出来ない様子だった。 けれど、何をどう言葉にしていいのかが分からないようでまた酒に手を伸ばす。
「あたしはツバメくんの気持ち分かるけどなぁ。」
とりなすように“フリッガ”。けれどもそれは、火に油を注ぐようなものなんじゃないか。 思った途端“卯月の女”が突き刺さるような声で反論した。
「へぇ。“フリッガ”さんは彼女なのに、って言ってもお話の中でだけど、それでもツバメくんの味方なんだ。」
“フリッガ”は少し考え込むと、
「なんて言うか、ぎりぎりでしか生きられないと思うんですね。その頃の私たちって。 嘘ついたりだとか、誤魔化しながら上手くやるとか、出来ないから。それに傷つく事にとても臆病になってしまったり、 それで逆に傷つけてしまったり。自分を貫く事が出来ないのはやさしいからだと思う。 例えそれで彼女の誤解も親友の誤解も融けなくても仕方ないよ。」
“フリッガ”の声はどうしてこんなに優しく染み込んでくるのだろう。
余りにも正しくて、納得せずには居られない。けれども正しい事が全て、誰にとっても正解な訳じゃない。 僕はハラハラしながら二人を見守る事しか出来なかった。
「じゃあ傷つけてもいいの?それで誰かが傷つくって分かっているのに何もしない人を責めるのは間違った事? 好きになったら大人しく傷ついているしかないの?あたしは違うと思う。自分は傷ついても、彼女は傷つけたらいけないと思う。 あたしならそうする。」
“卯月の女”は苦しそうに息をついた。無理やり冷静を装う表情は今にも泣き崩れてしまいそうだ。見てられない。
「みんなが“卯月の女”さんみたいには考えられないんだよ。“卯月の女”さんみたく強くはないんだよ。」
“フリッガ”が優しく諭すように言う。しかし、何処か噛み合っていない。 所在の無い違和感はそのまま“卯月の女”の変化によって顕にされていく。 その言葉を聞いた“卯月の女”の顔色が徐々に醒めていくのが分かった。俯いた顔に自嘲気味な笑いが浮かぶ。
「あたしは、強くなんか無い。」
掠れた、消え入りそうな声で呟くと“卯月の女”は立ち上がった。 そのまま出て行こうとしたが一歩踏み出したところでぴたりと足を止めた。僕らの方を振り返ると。
「あ、お話の続きね。」
明るい声で“卯月の女”言った。しかし明るい調子とは裏腹に声がほんの少しだけ湿ってるような気がした。
「白いワンピースの良く似合う女はある日ツバメを呼び出してこう言いました。秘密をばらされたくなければ、私を殺して。 そう言うと彼女はツバメに小さなバタフライナイフを渡しました。さぁ。誰も傷つけたくないツバメくんはどうするの?」
上から見つめられる。降り注ぐライトを背負った“卯月の女”は表情を暗い影のうちに隠していて、 彼女が何を思っているのか分からなかった。
ナイフ・・・?
その言葉が僕の心にゆっくりとしみこむ。 じわじわと効いて来る毒のように僕の心臓を苦しく脈動させる。 どうしてこの女は僕しか知らない景色を目の前に突きつけるのだろう。

白いワンピースがふわりと風に舞う。

普段は日に当たることの無い、白い、細い裸の肩が上下に揺れている

絶え間ない波の音

スカートには、花の咲いたような赤い染み

右手に光るのは、夕日を照り返す小さなナイフ

おかしい位に反応する心と体。眩暈を感じながら頭を抱える。
白い浴衣を着た女はそのまま店を出て行った。店の自動ドアが閉まる瞬間“フリッガ”が立ち上がった。
「ちょっと、追っかけてきます。すぐに戻ると思うんで、待っててくださいね。」
困った笑顔でそう言うと、彼女も小走りで店を出て行った。
僕は、上を向いて思い切り息を吐き出した。目を閉じると眩しい照明が瞼のフィルターを通して、目の前を真っ赤にする。
空席になった両側がやけに広く感じた。
僕はそのままテーブルに突っ伏した。
何を間違えてしまったんだろう。どうして上手に出来ないのだろう。 僕の言葉は結局“フリッガ”傷も“卯月の女”の傷もえぐる結果になってしまった。僕は、誰も傷つけたくなど無いのに。
回転をゆるくした思考が、奥底から過去を滲ませる。白いワンピース。赤い花。波の音。むせ返る程濃い海の匂い。
どうしてもっと上手くやれなかったんだろう。どこでボタンを掛け違えた?後悔が僕の呼吸を苦しくさせる。深く、深く息をついた。 それから、心は緩やかに過去に引きずられていった。




遠くのさざ波が聞こえるような気がした。季節が海を鮮やかな青に変えた。海が、いつもより近く見えた。
長かった梅雨があけ、窓の外にはようやく解放されたと言わんばかりの夏が我が物顔で中庭を焼いている。 学校の中は明日の終業式を飛び越えて、すでに夏休み気分が充満しきっていた。
そんなざわついた雰囲気の中、僕はと言えばいつものように図書室で本を読んでいる。 いつもと違うと言えば大きな空のバックが通学鞄の横に置いてある事くらいだろう。今日は本を借りられる最後の日だった。 無制限に本を借りかれる。勢いばかりがついてこんなに大きな鞄を持ってきてしまった。帰りの荷物の重さなんて、 朝出かける時には考えも付かなかった。
そう、本当は、今日は早く帰るつもりだったんだ。
けれど、本を選んでいるうちに本の世界に引き込まれてしまって、気付けばいつもの場所に腰掛け、本の世界に没頭している。 扇風機の前、一番涼しい席が僕のいつもの場所だった。
強く吹き付ける人工の風。目が乾いた。そっと本を閉じる。ゆっくりと瞬きしながら遠くの海を眺める。頭はまだ本の中だ。 空想が実世界を煌かせる。光がやさしくその意味を問う。そんな風にゆったりと時を過ごすのが好きだった。
ふと何気なく視線を移動させると、一番前の席に見覚えのある後姿を見つけた。
以前よりも硬さを増した後ろ姿。小さな、真っ直ぐに伸びた黒髪に包まれた頭。肩を落として海の方を眺めるそれは、とても小さい。 存在がとても希薄にしか感じられない。なんだか酷く遠く感じて、心に冷たいモノが満ちた。
彼女の兄が傷害事件を起こしたことは、今では誰もが知っている事だった。
それまではサチ子同様優等生として有名だった彼がどうしてそうなってしまったのか。根も葉もない噂ばかりが耳に入った。 真実も少しは混じっていたのだろう。しかし、本当のことを知らない僕らが判断出来る事は、多分一つも無い。 サチ子にそんな事を聞けるはずも無く、クラスの中はぎこちない硬い空気に満たされていた。
サチ子がいつも通り明るく振舞えば振舞うほど、僕らは困惑した。サチ子は、誰にもその事について話さなかった。 もちろん僕にも。
あの事件があってから、サチ子は以前のように話しかけてこなくなっていた。図書室に姿を現すこと自体がなくなり、もう、 ずいぶんと言葉を交わしていない。僕は本を読みながら図書室の入り口を窺っている自分に気付き、 何度も、なんとも言えない空虚感を味わった。
僕は席を立った。ゆっくりと前の方に歩いていく。リノリウムの床は踏みしめるたびにきゅっきゅっと音を立てる。
「今日は話しかけてこないんだ。」
サチ子の横に腰掛ける。近づいてみると案外すんなり言葉が出た。サチ子はこっちを向くといつもの少し怒ったような顔をした。
「今日は裕介が話しかけてくんの待ってたんだよ?なのに裕介ったらずーっと本読みっぱなしであたしが来た事にも気付かないんだもん。 もう帰ろうかと思ってたよ。」
間近で見るとサチ子が痩せた事に嫌でも気が付く。丸かった頬はシャープになり、 低いと気にしていた鼻もすっと通って見える。だからだろうか。瞳の暗さが明るい表情に補いきれず、 真っ黒な瞳の底で何かを呼ぶように光り続けている。
「ははは、うん。ごめん。」
「やだ、謝らないでよ。なんかこっちが悪い事してるみたいじゃん。」
笑った。その、いつもの笑顔にも疲れが滲んでる。けれどいつものように話が出来る事、それだけで嬉しかった。 さっきまで没頭していた本の事すら忘れるくらいに。
サチ子はふっと口を閉じた。顔から表情がなくなり、それを隠すように海の方を眺める。
「今日、暇?」
いつになく真面目な声でサチ子が言う。
「え。うん。暇だけど何で?」
「朝日を見に行こうよ。」
こっちを向いたサチ子は笑顔でそう言った。
「朝日って、今から?朝、早起きしていけばいいじゃん。」
サチ子はむぅっと頬を膨らます。
「そんなんじゃ駄目なの。今日はね、なんだか裕介と沢山話したい気分だから。それに裕介にそんな早起き出来ないでしょ。 だから夜の内から海岸に行くの。分かった?」
僕はいつに無いサチ子の勢いに負けて頷いてしまった。
サチ子は笑顔を破裂させた。そんな彼女が、眩しかった。
「じゃあ決まり。八時に海岸に来て。待ってるからね。」
そういうとひらりと立ち上がって小走りに出て行ってしまった。
サチ子が出て行った図書室のドアをぼんやりと眺めながら、僕は今更ドキドキしている事に気がついた。 緊張している?誰かを思って自分がこんな風になってしまうのは初めてだった。なんだか自分が自分じゃなくなったみたいで、 どうにも落ち着かない。
のろのろといつもの席に戻る。扇風機が生暖かい風が吹きつける。汗ばんだ体は徐々に冷えていき、 僕は徐々に落ち着きを取り戻し始めた。机の端に積み上げた本を持ち上げる。僕はカウンターに本を持って行き手続きをする。 手続きをしながら、初めに予定していた量よりもずっと少ない事に気がついた。
本をしまいながら、余った鞄の空白をぼんやりと眺めた。


八時を少しまわった辺り、僕はTシャツとジーパンと言ういつもの普段着に着替えて自転車をこいでいた。 少し遅刻だ。自転車をこぐ足も必然的に急ぐ。
僕の耳元にはまだ、さっきの母親の言葉が重く残っていた。
茶の間で祖母と母親が話しているのが聞こえて、僕はそのまま立ち聞きしていた。普段ならそんな行儀の悪い事しないのだけれど、 そこから「サチ子」という名前が聞こえてしまったから、僕の足は必然的に止まった。

サチ子ちゃんがねぇ、可哀相に。
祖母が言う。

あんなに明るい子が虐待されてたなんて、それを親も知らん振りしてたって言うんだから。酷い話よねぇ。
母が同情交じりに言う。

親のしつけがよくなかったのよ。どっかのお偉いさんか知らんけど。酷い話だねぇ。
祖母がどこか嫉妬を含んだ言い方で言う。

暗い廊下に障子からもれる光が落ちて、僕はその淡い光に廊下の古い板の木目が浮かび上がる。 僕は恨みの叫びを上げる人間の顔みたいな木目を見つめた。
サチ子が、虐待?
これもきっと、根も葉もない噂話だろう。けれどもあの、サチ子の小さな後ろ姿が重なって、 否定しきれない自分がいた。何故だかもの凄く苦しかった。それから母と祖母の話はたわいない芸能ニュースに移って行った。 けれども、僕はしばらくそこから動き出す事が出来なかった。

夜の風は昼間の暑さが嘘のように涼しい。
あの暑さをどこに吸い込んでしまったのだろう。風は自転車をこぐ度に熱くなる体を心地よく冷やしてくれる。
長く続く坂道を下り切ると、目の前に海が開けた。目の前には今まで視界を遮っていた民家やどんな建造物もなく、 少し明るめの夜空と漆黒の海原だけが広がっている。浜辺へ降りる階段の前に自転車を止める。 周りを見渡すが、サチ子の姿は見当たらない。一段抜かしで階段を駆け下りる。階段の影になった所にサチ子はいた。
僕は、少しだけ驚いた。
サチ子はノースリーブの白いワンピースを着ていた。 ワンピースは裾の部分が長く、立ち上がった彼女の足元で優しく揺れる。 制服以外の服を着ているのを見るのは初めてだった。白いワンピースは、サチ子に良く似合っていた。
いつもみたく怒っていると思ったのに、顔に浮かんだのは安堵の表情だった。けれどもそれはすぐにいつもの顔になる。
「もー。遅いよ。来ないかと思ったじゃん。」
「ごめんごめん。」
笑いながらサチ子の横に腰掛けると、サチ子もそのまま座った。少し湿った砂が尻に冷たい。
間近に迫った海の匂い。湿度の高い空気。寄せては返す波の音。漆黒の海原。僕らはそのまましばらく海の音を聞いていた。 サチ子は何度か何か言おうと息を吸い込んだが、それは言葉になることなくため息に変わった。 僕は、そんな彼女が何か言い出すのを根気良く待った。サチ子はもう一度息を吸い込んで、諦めたように吐き出す。
「あーあ。さっきまではあんなに話したい事があったのになぁ。裕介の顔見たら全部わすれちゃったよ。」
サチ子は砂浜に寝転んだ。
「ねぇ、裕介なにか話してよ。」
サチ子に見つめられるとドキドキした。そして、ふいにさっきの母の言葉が蘇る。

サチ子ちゃんが虐待されてたなんてねぇ

そんな事、あるはずない。
僕はその言葉を打ち消すように学校であった事や家であった事を精一杯面白おかしく話した。 サチ子もその流れに乗るように学校のムカつく先生の話や友達の失敗談などを話し続けた。 どちらかの話が途切れればどちらかが補うように会話は続いていく。ほんの少しの沈黙は波音が優しく埋める。 そしてまたどちらからともなく話始める。会話は中々途切れなかった。
そんな風に笑いながら話をする事は、思えば初めてだった。いつもサチ子は難しい哲学的な話やどうして宗教があるのか、 世界の始まりは、宇宙の果ては、そんな話ばかり吹っかけてきたから。
僕は、サチ子の話に耳を傾けながら空を見上げた。
僕が空を見上げると、隣でサチ子も同じように空を見上げたらしかった。
ふっと、言葉がやむ。言葉が途切れると急に波音が近く感じる。一定のリズムで寄せては返す波音。目の前には果てしなく広がる星空。 目を閉じると、自分の小ささを感じた。
「なんかさぁ、空を見ると自分ってちっぽけな存在だなぁって思うんだよね。」
「うん。」
同じ事考えてた。
「自分って、何なんだろうって。いつかさ、どうして生まれて来たんだろうって話したじゃん?それをね、考えてしまうの。 あたし、どうして生まれてきたのかなぁって。」
波音がサチ子の言葉を少しずつ削る。僕は何も言えずに黙り込んだ。その言葉は、どうしようもなく悲しみに満ちていた。 サチ子を見る。目を閉じて波音に耳を澄ましていた。
僕もあれから何度か考えてみた。
どうして僕らは生まれてきたのだろう。
考えても考えても答えは見つからなかった。裏と表がくっついてしまった輪っかのように、 奇妙なねじれの中で答えをはぐらかされてしまう。
どうして僕らは生まれてきたのだろう。
空を見上げた。
そこに答えなんかないって、わかっていたけれど。小さく光る星が七色に煌いている。 わずかにかけた月が優しい光を投げかけている。空は大きい。どうしようもなく大きい。
サチ子を見ると、目を閉じたままだった。もう眠ってしまったんだろうか。デジタルの腕時計は十一時半を示している。 僕も目を閉じた。海と、空と、隣にはサチ子が居る。サチ子の熱を間近に感じられる。それだけじゃいけないのだろうか。 僕はそれだけでいいのに。気付けば僕も眠っていた。

「ねぇ・・・ねぇってば!裕介!起きてよ。朝日見るんでしょっ。」
「ん・・うん・・。」
激しく体を揺さぶられて僕は起きた。顔に付いた砂が気持ち悪い。 体に付いた砂を払いながら起きると、辺りはもう明るかった。朝の湿った冷たい空気が段々と僕を覚醒させる。
「もう。裕介ったら全然起きないんだもん。ほら、起きて起きて。」
手を引っ張られ無理やり立ち上がらされる。サチ子は僕の手を掴んだまま波打ち際へと歩く。 大きくあくびをする。そんな僕を見てサチ子は嬉しそうに微笑んだ。
僕らは手を繋いだまま日の出を待った。
空はもう随分明るいのにその時は中々訪れない。眠い目をこすりながら目の前の空を見つめる。 サチ子はしっかりと僕の手を握ったままだ。小さくて柔らかい手。僕も強く、確かめるように小さな手を握った。

水平線が、金色に輝き出した。

金色の光の線が現れて、少しずつ真っ赤なその姿が見え始める。
僕は美しさに言葉をなくした。
息を飲んでその輝きを見つめる。サチ子も、同じ景色を見ているんだ。その事が嬉しくて、繋いだ手に力を込めた。 繋いだ手が少し持ち上がる。どうしたんだろう。次の瞬間、僕は右手に滑り込む熱を感じた。
風が、サチ子のワンピースを膨らませた。
右手を見る。赤に濡れていた。そしてサチ子の白いワンピースにも、花が咲いたような小さな赤い染みが付いている。
右手が熱い。痛いのかどうかも分からない。何がどうなっているのか。サチ子は、泣いていた。ぐっしょりと顔を歪ませて。
「ごめんね。」
そう言うと彼女は海の中に走って行く。右手にもったカッターナイフ。朝日を浴びてオレンジ色に輝いた。 水しぶきがあがる。白いふくらはぎがじれったそうに海を蹴り上げる。
サチ子は足元が濡れるくらい場所まですすむと、右手に持っていたカッターナイフを高く掲げ、両手で持ち直す。 刃は彼女の喉元を向いている。
強い光が、ナイフに当たって跳ねた。
僕は駆け出していた。
海は冷たい。靴が水を吸い込んで重い。絡め取られる寸前で足を前に蹴り出す。 もつれる足を無理やり動かしてサチ子に手を伸ばす。サチ子を後ろから羽交い絞めにした。 何か叫んでる。体をめちゃくちゃに動かして暴れるサチ子を、止めなければ。止めなくちゃ。 その一心で強く抱きしめた。僕らはもつれ合ったまま海に倒れた。
カッターナイフ。
ナイフは彼女の近くに落ちていた。僕はそれを掴むと砂浜の方に思い切り投げた。 ナイフは砂浜までは届かずに波打ち際に落ちた。
海の中に座り込んでしまった。サチ子も、荒くなった息に任せて肩を上下させている。 何かを呟きながら、流れ出る涙を拭ってる。
徐々に濁りを消していく海。透明の中漂うスカートが、白い足を顕にする。僕は、サチ子の太ももの辺りに大きな青黒い痣を見た。 それも、一つじゃなかった。
何が、一体、どうなったって言うんだ。
理解出来る事なんか一つも無い。海水に洗われて熱く痛む右手を見た。赤い血の向こう側、うっすらと白いものが見えた。
長い時間そうしていた?わからない。どれくらい、そうしていたんだろう。
サチ子は微かな水音と共にのろのろと立ち上がった。
そのまま僕を振り返ることなく一歩一歩遠ざかっていく。
「ちょっと待てよ!」
僕の叫びは砂浜を歩くサチ子の前でかき消されてしまったように、サチ子には届かなかった。 しばらく僕はそのまま海の中に座り込んでいた。サチ子の姿が見えなくなってから、ようやく僕は立ち上がる事が出来た。
重たい海の中。足を引きずりながら浜辺を目指す。体中が冷えて、右手だけが異様に熱くて。どうにかたどり着いた砂浜に、 倒れこむように腰を下ろした。
眩しい朝日を浴びながら、僕はサチ子が叫んでいた言葉を思い出していた。

ひとりになりたくない

ゆうすけのちがついたないふでしぬ

ひとりにしないで

ひとりにしないで

今更思い出して何になるんだろう。僕は、一体サチ子の何を見ていた。
疲れた体を横たえた。目の前には薄青の空が広がっている。 生まれたばかりの太陽が、勢い良く登りだしていた。




「ツバメさん、そろそろ起きてください。もう閉店の時間です。」
へいてん?
頭が痛い。そして呆れる位に重たい。“卯月の女”の声。もう置いて言っちゃおっか、なんて言ってる。 僕は目を開けた。暖色の薄暗いライトとテーブルのべたべたとした不快感。頭を上げた。
「ほら。もう、出ますよ。」
そう言って“卯月の女”は僕の腕を引っ張る。ふら付きながら立ち上がった僕は二人の女の後に従った。
店の外にはもう朝が広がっていた。
空にはねずみ色の雲が重たく垂れ込めている。そのせいで日が昇ったのか、まだなのか分からない。 二日酔いの症状を示す体を引きずりながら、先を行く二人の女の後ろ姿を眺めた。
寄り添って、楽しそうに歩いてる。
二人は、僕が覚えている限りではとても険悪なムードだったはずだ。 なのに今は二人で冗談を言いながら笑ったり小突きあったりしている。どういうことなのだろう。考えようとすると頭が痛んだ。
「まだ電車動いてないと思いますから、そこのファミレスで時間つぶしてから行きましょう。」
“フリッガ”はそう言うと目の前にあったファミリーレストランに入っていった。
コーヒーを三つ。水を持ってきた店員に“卯月の女”は言う。
「あとチョコレートパフェ一つ。」
“フリッガ”がメニューを打ち込んでいる店員に早口で言った。
「あんた、朝からよくパフェなんか食べれるわねぇ。」
あきれた顔で“卯月の女”。“フリッガ”はふにゃふにゃ笑っていた。“卯月の女”もあきれた顔のまま笑っている。
あの後、サチ子は終業式には来なかった。そして夏休みがあけると担任はサチ子が転校した事を告げた。 担任の口から聞かされるよりも早く、皆知っていたようだ。小さな町は噂が広がるのも早い。 僕も母親がそんなような事を言っていたから、なんとなく分かってた。
それにしても、どうして僕はあんな勘違いをしていたのだろう。
あれは、夕日じゃなくて朝日だったんだ。サチ子が見たいと望んでいたのは朝日だった。 それなのに僕は今までずっと夕日だと思い込んでいた。それも、今となってはどうでもいいことだ。 サチ子は、朝日を見つけられただろうか。ふと、そんな事を思ってしまう。
「あの、ツバメさん。さっきは本当にすいませんでした。」
“卯月の女”が頭を下げた。
「あ、いえいえ。いいんですよ。それより二人はいつの間に仲直りしたんですか?」
僕が聞くと二人は顔を見合わせてクスクス笑った。
「実はね、こんな事しょっちゅうなんです。私たちって意見が対立しやすいから。でもまぁ慣れって奴ですかねぇ。 落ち着くとお互い謝ったりなんかして。案外すぐに仲直りしちゃうんです。それで、二人で戻って来たらツバメさん寝てるんだん。 なんだかおかしくって笑っちゃいました。」
“卯月の女”が本当におかしそうに言う。なんだか心配して損してしまった。けれども二人がこうして笑ってる。 僕はその事に満足していた。
「それでね、お話作っちゃったんです。ツバメさんが寝てるうちに。」
コーヒーとチョコレートパフェが運ばれてきた。“フリッガ”は目を輝かせて高く積みあがるチョコとアイスの塔を切り崩し始める。
「どんな風になったんですか?」
コーヒーを啜りながら聞く。すると二人はこそこそとどちらが話すかを決め、“卯月の女”が話始めた。
「ナイフを渡されたツバメ君は、結局何も出来ませんでした。 そんな優柔不断な彼を見て失望した白いワンピースの似合う女はツバメくんのもとから去って行きました。 そうこうしている間に空ちゃんとダイチくんがいい感じになって、二人は付き合う事に。 何も決められなかったツバメくんは結局一人になってしまいました。」
僕は続きを待ったが、どうやら無いらしい。
「それで終わりですか?」
聞くと、二人は笑い出した。そして返って来た答えはイエスだった。
窓の外ではもう、スーツ姿の男が歩いていた。一日が始まったんだ。 僕らの周りだけが夜を続けているようでなんとも不思議な気がする。
僕らは“フリッガ”がチョコレートパフェを食べ終えるのを待って、すぐにその店を出た。 その頃にはもう道を歩いている人が増えていた。
駅に向かって歩く。僕はやっぱり二人の後ろを歩いていた。
少し着崩れた白い浴衣が、いつかのサチ子に重なる。懐かしくなって右手を見る。夜見た時は生々しく見えたけれど、 今見ると乾いて干からびた、ただの古傷だった。
「あ。」
“フリッガ”の何か思い出したような声。彼女は僕の方を振り返ると、
「ツバメくんの“過去”って、一体何だったんでしょう。」
あぁ。そういえばそれが抜けていた。僕は少し考えてから。
「じゃあそれは又次に飲むときに話しましょう。」
そう言った。
「また三人で飲みたいな。ツバメさん連絡先教えてくださいよ。」
前に居た“卯月の女”が近寄って来た。彼女は携帯を取り出すと自分の番号とアドレスを表示させた。 画面の一番上には彼女の本名。鷺沼ゆりか。“フリッガ”も寄ってきた。田中みか。画面の上にはそう表示されている。
朝の光の下で女たちにようやく現実感を覚えた。現実の世界はいつでも重たい。 その重みがなければ僕らは居心地が悪くて仕方ないだろう。僕はようやく実体を見せた二人の女を少しだけ愛しいと思った。
連絡先を交換しあうと、また二人の女は先を歩く。その向こう。駅の方から一羽のツバメが飛んできた。
子育てを終えたばかりなのだろう。厚く垂れ込めたねずみ色の空の下、 ツバメはゆったりと空を歩くように飛んでいた。二人の女たちも気付いたのだろう。 僕らは足を止めて、ツバメの姿が町並みに消えるまで空を見ていた。
駅に着く。
二人はそこから電車に乗ると言う。僕はなんだか少し歩きたい気分だった。
「じゃあ、ツバメさん、これに懲りずにまた飲んでくださいね。」
“卯月の女”が言う。“フリッガ”が笑顔で大きく手を振る。去っていく二人を見送ると、僕は改札口を出た。 灰色の空の下、街は着実に動き出していた。まだ会社に行くまで時間がある。
僕はゆっくりと、隣駅まで歩き出した。


補足:
白兎さまからリクエストいただきました。
現在saiも作成中です。
ありがとうございました☆
to kikakupage







アクセス解析 SEO/SEO対策