no.3...ふたつの景色 後編
おーい、と自分を呼ぶ声がした。
息せき切って向こうから走ってくるのは、こっちに来て仲良くなった男の子だ。
「なぁ、今日は何を採りに行く?そろそろ、8センチのカブトムシでも捕まえにいくか?」
"OO"という村の子が満面の笑みを浮かべて言う。
うーん、と少し唸ってから私は答えた。
「今日はよく晴れているから、蝉がいいな」
「蝉なんか東京にもいるだろ。今日は大物が採れる気がするんだ。なっ、そうしよう?」
嬉しそうに彼はそう言って私の手を引っ張る。私がどんな希望を言おうと、結局彼の言うとおりの虫を採取しに行くのはいつものことだ。
私はしょうがないなぁ、と笑って、走り出す彼の後を追いかけた。
彼はこの小さな村に住んでいる。年は聞いたことないが、私とそう違いはしないだろう。
田舎に来て数日後、川辺で蜻蛉を追いかけていた私に声を掛けてきたのだ。
彼にとって、いわゆる「都会の子」はさほど珍しくなかったが、私みたいに虫が好きな子(しかも女)は初めてだったらしい。
あっという間に仲良くなった私たちは、今では毎日朝から晩まで一緒に虫捕りをするようになっていた。
あの、関東を揺るがした大震災に運悪く見舞われてから約1ヶ月。
丁度秋休みということもあって、交通網がなんとか復帰した直後母方の両親が半ば強引に私たちを呼び寄せたのだ。
向こうで苦労している友人や両親には多少気が引けるが、田舎の暮らしはあの惨劇を忘れさせてくれる。
刺激も、娯楽も何もない。確かに何も無いが、ここには私の大好きなものたちが一杯だ。
祖母の家から少し離れた雑木林に踏み込む。そこにはカブトムシが集まるクヌギやナラの木がたくさん生えている。
一歩一歩私が草を踏む度に小さな昆虫が逃げ場を求めてジャンプする。それが面白くて、わざと歩幅を狭くして歩数を増やす。
突然天変地異にでもあったような仕草でいっせいに跳ね回る様が可愛い。そして愛おしい。
なるべく殺さないように足元を凝視しながら歩いていると、突然目の前に極彩色の蜘蛛が現れた。
びっくりしてとっさに後ずさると、彼がにやりと笑いながら小さな蜘蛛を指先でつまみ、こちらに向けて揺らせていた。
「下ばっかり見てると、獲物を見失うよ」
「驚かさないでよ、もう」
彼から、お前にやるよ、と鮮やかな蜘蛛が手渡された。
手のひらに乗せて目を凝らす。妊婦のように大きく膨らんだ腹の部分、それからふたまわりほど小さな胴体。いずれも透明度の高い鮮やかな朱色である。
そこから均等に伸びる黒くて、細くて、長い足。蜘蛛だ。知ってる。
「ミナミノアカイソウロウグモ」
口に出してからじっとその蜘蛛を眺めた。
ヒメグモ科の、他の蜘蛛の巣を捕食するという珍しい性質を持った蜘蛛だ。生息地は西表島や沖縄、本州では見られない珍種だ。
「よく判ったな」彼が感心したように言う。
「判るよ、図鑑でいつも眺めていたもの。すごく・・・綺麗」
「俺が作ったレプリカだよ。よく出来てるだろう?」
「くれるの?」
得意げに彼が頷く。
「ありがとう!」
「いえいえ。本当は俺、あんま蜘蛛好きじゃないんだけど特別」
「どうして?」
「どうしてって・・・どうしてもだよ。それに、他の虫を罠にかけて喰っちまうんだぜ」
「そんなの・・・」
生きる為に仕方がない、という言葉は飲み込んだ。
彼はまた先に立って歩き出す。私は、小さな蜘蛛を壊さないように採取ビンに入れてポケットに仕舞った。
なんだかくすぐったいような、妙な気分。友達とはこういうものなのか、と嬉しくなる。
実を言うと、東京では友達と呼べる存在はほとんどいなかった。友達と遊ぶより、虫を追いかけている方が好きだし、
それ以外のことに興味を持てなかった。我が家に"宗太"が来てからは宗太とお喋りするようになったから
別に寂しいと思わなかった。幼い頃から、私の友人はいつも物言わぬ虫たちだった。
宗太――――
不意に涙がこみ上げてきた。私が飼っていたタランチュラを思い出したからだ。
あの災害で、ガラスケースは粉々に割れ、宗太はいなくなってしまった。
宗太。
ペットショップで見つけたときは息が止まるほど興奮したっけ。
父親に強請って買ってもらって、宗太という名前をつけた。
1歳の誕生日にアゲハチョウをプレゼントしたのに見向きもしなかった。
冷たいし、動かないから、蝶だと判らなかったのかもしれない。
急に黙り込んだ私を気遣ってか、彼は目に付く虫をいちいち解説しだした。私も知っていることばかりだったが、口に出さずに黙って聞いていた。
自然なものは綺麗だ。何の仕掛けもない、純粋な芸術。
数多の虫こそが、自然が作り出した一番の工芸品。
ポケットの中のクモにそっとビン越しに触れる。まだ見たことのない虫。焦がれるほどに、失くしたものの記憶に切なくなる。
宗太は何処にいっちゃったの?
建物の下敷きになって潰れてしまったの?
それとも、飢えた鳥に食べられたの?
ただ、生きていてくれたら・・・・・・。
サウスアフリカンホーンドバブーン、学名セラトギラスダーリンジ。
そんな由緒正しい名前を持つ宗太は、私の宝だったのだ。
涙がぽろぽろ出てきた。
お父さんやお母さんのことを考えてもこんなに泣かなかったのに、やっぱり私はどこかおかしいのだろう。
後ろでしゃくりあげる私に気付いて、どう接したらいいのか判らず当惑している彼が見える。
「なんだよ・・・どうしたんだよ?」
首を横に振って、なんでもないという意思表示をしたつもりが伝わらなかった。
「どこか怪我したのか?」
「ちがうよ・・・向こうで・・・可愛がってた・・・タランチュラが、死んじゃったかもしれなくて・・・」
「・・・そっか」
「宗太・・・・・・、ふ・・・ぇ。ん」
「なあ、××ちゃん」
名前を呼ばれて思わず彼を見る。
「虫の命なんて、ほんとに少しだろ?だから、そいつも、ガラスケースを出てはじめて自分の足で歩く世界に感動したと思うよ」
そういって彼はどこか寂しそうに笑った。
「早く取って、家に帰ろう。ね?」
また、優しく微笑まれる。
私はこくりと頷くと、立ち上がった。カブトムシを見つけに行かなきゃ。
早く、見つけにいかなきゃ・・・・・・
自由へ。
あらゆる呪縛から逃れる。
地を這うものは空を舞うものから、空を舞うものは風から、風は太陽から。
それは憧れにも似た摂理。
"長い長い夢を見ていた"
"永く永く焦がれていた世界は本当に美しかった"
"太陽に焦がれて"
"確かに太陽に愛された"
"幸せだった"
"だから"
"生まれてきて本当に、よかったって――――。"
「待って――――!!!」
自分の悲鳴で跳ね起きた。
一番初めに兄の顔が目に入った。
「××・・・!」
兄は泣き笑いのような微妙な表情を一瞬浮かべて、それから大声で母を呼んだ。
真っ白いベッド、枕、シーツ、そして床、壁。
そこはどう見ても病院だった。
目を醒ましてから詳しく話を聞くと、私はあの震災で意識を失ったままだったらしい。
ということはあの生活は全て夢ということらしい。
なんてリアルな夢だろう。彼の声も、顔も、握った手の感触もはっきりと覚えている。
私はベッドから降り、窓の網戸に足を掛けて張り付いている蝉に手を伸ばした。
網戸に指先が触れた瞬間、蝉は枯葉が落ちるように空に舞った。音もなく、まるで安心しきったように風に身を委ねて。
「○○・・・」
何故か彼の名が口について出てきた。
理由のない悲しさが胸を締めつける。感情のまま、私は泣きじゃくった。
窓の外では蝉が鳴いている。
いつもは心地いいはずの独唱が、何故か今は耳が痛い。
あの蝉への鎮魂歌を奏でているような気がして。
"最後に、伝えることが出来ただろうか?"
"あの日、僕の為に涙を落としてくれた、君に。"
Insects 蝉(妹編) 終了。