金魚の涙



奥深い森の奥。神様の気まぐれのように、ぽっかりと口をあける美しい湖がありました。 青く佇む静かな湖の中には沢山の小魚や小さな生き物たちが暮らしています。
湖岸の近く、少し深くなったところに魚が泳いでいました。この、小さな物語の主人公です。 そんな事とは露知らず、彼は楽しそうに泳いでいます。彼の名前はむぅ。長い尾びれを持つ小さな、真っ黒い魚です。

むぅは泳ぐ事が大好きでした。体を翻し、胸びれを叩く。水草の周りを一周して深く湖底に潜る。 踊るように泳ぎ、体に当たる小さな渦に微笑む。むぅの小さな体からは湖の生き物にしか聞こえない音が流れ出します。 その瞬間にだけむぅは自分がむぅであると感じる事が出来ました。
それは不思議な感覚でした。むぅは、そんなことしなくっても生きていく事は出来るのです。 しかし、むぅの体の中の別の場所、どこか奥の方でむぅを掻き立てる声がするのです。
泳げ。踊れ。奏でろ。と。
むぅは精一杯泳ぎました。それだけがむぅに出来る事でした。 むぅが、本当のむぅになっていく。体を走り抜ける喜びの中で、むぅは疲れ果てるまで泳ぎ続けるのでした。

ある日、むぅはいつものように泳いでいました。すると今まで聞いたことのないような音が聞こえてきました。

ぴちょん・・・

ぴちょん・・・

雨が降り出すときに似た音。けれども空は青く広がり湖の底に揺らめく光の網目模様を浮かばせています。

ぴちょん・・・

ぴちょん・・・

聞いたことがないのに、むぅは懐かしい気分になっていました。 そして悲しくて心がきゅっと小さくなります。懐かしくて、痛くて。むぅの体は熱くなりました。
「一体何の音だろう。」
むぅは音のする方へ泳いでいきました。音は空から降ってきます。空を見上げると、

ぴちょん・・・

ぴちょん・・・

音の後に小さな輪っかが生まれ、少しずつ大きくなって消えていきます。

ぴちょん・・・

きらきらと光る湖の空に次々に輪が生まれてゆく。
音が、むぅの心を、体を震わせました。どうしようもない感情があふれ出し動く事さえ出来ません。
「きっと誰かが泣いてるんだ」
むぅにはどうする事も出来ません。

ぴちょん・・・・

ひときわ大きな音が降ってきたときです。小さな輪の中心から透明に煌く欠片が落ちてきました。 ゆっくりと落ちてくる欠片は湖の底に落ちるとじっと動かなくなりました。 透明に輝く欠片に引き寄せられるようにむぅは近づいていきました。周りの光を全て吸い込んでしまうかのような輝き。 欠片の周りはしんとしています。むぅは欠片に口を寄せるとごくんと飲み込みました。 欠片はむぅのお腹の中で、冷たく甘く融けていきました。
むぅはもう一度音がした方を見上げました。しかしそれっきり音は聞こえません。 空は滑らかに広がっています。むぅは動く事も出来ず、ぼんやりと空を眺め続けました。


あの音が聞こえた日から、むぅの心は変わってしまいました。楽しく泳ぎ回る事もなく、空ばかり見上げる毎日です。 むぅの中で、あの日聞いた音はどんどん曖昧なものになっていきました。 どんな音だったっけな。思い出すたびに忘れていきます。それなのにあの時に感じた悲しさや体の熱さは一向に消えてくれません。 お腹の中がきゅうっと切なくなるのです。どんどん強くなっていく思いでむぅの心はいっぱいになっていました。
むぅはぼんやりと空を見上げました。ゆらゆらと揺れる水面の向こうで白い雲がのんびりと流れていく。 湖の中はとても静かでした。沢山の生き物たちが居るはずなのに、なんの物音もしません。 張り詰めた静けさの中で、むぅは待っていました。
空を見上げる視界の端に、赤く光を跳ね返すものが映りました。 初めはあまり気にも留めていなかったむぅですが、ちらりちらりと光る何かが少しずつ気になってきたのです。 何気なく目をやると、遠くで細く赤い光が踊っているようでした。 行く筋か差し込む光の回廊の中、水草と戯れるように、そして全部を壊すように。 めちゃくちゃな動きの中に普遍的なリズムを隠しながら赤い光は踊っています。
むぅは血が冷えていくような、沸騰していくような不思議な不安感に襲われました。 赤い光はたった一匹、静かな湖の中で生きているもののように思えました。むぅは自分でも気付かず踊る光に近づいていました。
赤い光は今まで見た事のない、細く赤い魚でした。朱色の体は太陽の光を浴びると金色なります。 赤い魚に気付かれない程度に近づくと、むぅはその動きをただただ見続けました。 むぅはそれ以上は近づけませんでした。赤い魚には近寄りがたい雰囲気があったのです。 むぅは一緒に泳ぎたくてしかたありません。理由なんかありません。 むぅはただ、体の奥底が赤い魚の動き一つ一つに震えてしまうのです。

ぱぱん・・・ぴゅぽん・・・・

むぅの耳が何かを感じ取りました。それは赤い魚が出す音でした。はかなく繊細で、息苦しくなる音。 何かの音に似ていました。けれどもむぅにはそれが何の音なのかはわかりませんでした。

ぱん・・ぱぱん・・・ごひょぉぉん・・・・・

  むぅはもう我慢出来ませんでした。 リズムとリズムの隙間に、高音の下に、その動きの狭間に、自分の泳ぎを入れたくって堪らなかったのです。 むぅはそこまで来た時のようにふらふらと赤い魚に近寄りました。赤い魚の動きを邪魔しないようにそっと隙間に入りました。

ぱん・・ぱぱん・・・・
         ボン
ぱん・・ばぽん・・・・
         グワン

二つの音がそっと重なりました。赤い魚はむぅをちらっと見ると嬉しそうにニヤっと笑いました。 それだけでむぅには赤い魚の気持ちが分かるようでした。
「同じ気持ちだ」
むぅは嬉しくてしかたありません。
初めて会った赤い魚とむぅは疲れ果てるまで泳ぎ続けました。

「おつかれさん」
「ども」
疲れ果てたむぅと赤い魚は湖の一番底の涼しいところで休む事にしました。 むぅの体は疲れきっていました。それなのにむぅはまだ泳ぎたくて仕方がありませんでした。
「俺はカノン。本当の名前はカノってんだけど皆はそう呼ぶ。君の名前は?」
「むぅ」
カノンはあまり疲れた様子も無くむぅに色々話しかけては一人で納得したり笑ったりしています。 むぅはカノンの言葉に曖昧に頷いたり返事をしたりするだけです。 本当はもっと沢山話したかったのだけれど、うまく言葉にすることが出来ないのです。
「君みたいな魚は初めて見たよ」
カノンは愉快そうに笑いました。むぅも全く同じことを思っていました。
「僕も、君みたいな魚は初めて見た」
カノンは嬉しそうな悲しそうな顔でそうかと呟きました。
「楽しかったよな、今の」
「うん。楽しかった」
「すごいよな、なんか」
「うん。すごい」
二人にはそれだけで充分でした。
むぅはふと、カノンならあの音について何か知っているのではないかと思いました。
「ねぇ、カノンはあの音聞いた?」
「ん?何の音?」
「えっと・・・」
むぅは言葉に詰まりました。音の最後に落ちてきた欠片をどう言ったらいいのか分からなかったのです。
「やっぱり何でもない。気にしないで」
一緒に泳いでいる時はあんなに分かり合えたのに。 むぅは言葉にしようとするとよく分からなくなってしまうのです。むぅはやりきれない思いでいっぱいになってしまいました。
俯いているむぅをみたカノンは元気付けるように、真っ赤な体をぐるりと一周させました。 薄暗い湖の底で、赤い体が金色に光って見えました。


それからむぅとカノンは暇さえあれば一緒に泳ぎました。 そうしているうちに二人のダンスに惹かれるように一匹、また一匹と色んな生き物が集まってきました。 皆それぞれ違った泳ぎ、違ったダンス、違った音を持っていました。新しい誰かが増えるたびに新しい音になりました。 泳いだり踊ったり音を出したり出来ないものは彼らの泳ぎを見ていました。 彼らの泳ぎは見ているだけで楽しくなるものだったのです。
むぅも、そんな毎日が楽しくてしかたありませんでした。自分が確かに此処にいる事。 そして確かに存在していた自分が融けて、もっともっと大きなものに広がっていく。 その感覚は一度覚えてしまったら忘れる事などできません。
しかし、むぅは時々、お腹の中がきゅうっと切なくなるのを感じました。そして、あの音を思い出すのです。
あれからも音は時々聞こえてきました。その度にむぅの心を寂しくさせました。 そしてむぅは最後に落ちてくる透明な欠片を飲み込み続けていました。お腹は重くなりませんでした。 しかし心はどんどん悲しみに沈んでいくのです。自分が透明になっていくような気持ち。 むぅはその度に空を見上げました。揺れる水面の向こうに広がる青。悲しくて、どうしようもなくて、空を見上げるのでした。
むぅの泳ぎは透明な欠片を飲み込むたびに、皆の心を振るわせるものになりました。 楽しさと悲しさが一片に押し寄せて、見ているものは皆どうしていいのか分からない熱い気持ちになるのです。 むぅ自身は自分の泳ぎが変わっていることに気がつきませんでした。
むぅは、ただ泳ぎました。むぅに出来るのは精一杯泳ぐことだけでした。
みんなと泳いでいる時だけはどんな不自由さからも解き放たれて、どこまでも行けるような気がするのです。
最近では五匹の魚と一匹の蟹と泳ぐ事が多くなりました。彼らはひとりぼっちだったむぅが見つけた宝物でした。
煌く白い尾びれが柔らかく水面を切る。
蒼い蟹が鋏を鳴らす。
めだかの兄弟が重なった一つの音を奏でる。
カノンが激しく繊細に、寂しそうに泳ぐ。
その中でむぅは皆の音に融けていくようなダンスをするのです。 小さな黒い体。長い尾びれで水をかく。その度に優しく低い音が生まれます。
むぅは体が命じるままに泳ぎました。とても楽しくて気持ちよくて幸せで。 しかしむぅは気付いていました。むぅの体の中には泳いでも泳いでも満たされない悲しみがあることを。 一緒に泳ぐ仲間たちと一つに解け合ってどこまでもいける。しかし届かない悲しみがある。そのことに気付いていたのでした。
むぅはただ泳ぎました。むぅに出来るのは精一杯泳ぐことだけでした。

ぴちょん・・・・

遠くで小さな音が鳴りました。

ぴちょん・・・・

皆がどんなに色んな音を出していようとも、むぅにはその音が聞こえました。
むぅは皆に気付かれないようにそっと抜け出しました。一目散で音がするほうに泳いでいきました。 むぅは水を裂いて泳ぎます。今日こそは、悲しみの原因を知りたい。その思いがむぅを泳がせました。

ぴちょん・・・・

いつもの場所で音は降ってきていました。
見上げる空には透明な光の輪が広がっては重なって。大きくなって消えていきます。 むぅは水面の、わっかの中心に向かっていきます。

びしゃん

水面に顔を出した途端、大きな雨粒がむぅの顔を濡らしました。 しょっぱい雨粒に目をしばたかせながら見上げると、そこには赤い服を着た白い肌の女の子が居ました。 茶色の真っ直ぐな髪。大きな瞳は濡れています。
「どうして泣いているの?」
むぅは訪ねました。しかし声が小さすぎて女の子には届きません。女の子は悲しそうな顔でむぅを見つめています。
「いつも聞いてたんだよ」
どんなに言葉をかけても女の子は悲しそうな顔をするばかりです。
むぅは悲しくなりました。体に積もった悲しみがあふれ出したのです。むぅは湖にもぐりました。 そして体の中でなり続ける涙の音にあわせて泳ぎ始めたのです。
それは今まで泳いだ事の無いダンスでした。誰かのために泳ぐなんて事、むぅはした事が無かったのです。 おなかの中にたまった悲しみが融けていく。僕はずっと聞いてたよ。そう伝えたくて、 むぅは体から染み出る感情のままに体を流し続けました。

ぴちょん・・・・

むぅの上に、透明な欠片が降りてきました。 欠片はむぅの背びれにこつんと当たると湖の底に落ちていきました。むぅはそっと欠片に近づいていきました。
欠片は、今までにないくらいキラキラと輝いていました。

ぴちょん・・・・
 ぴちょん・・・・
  ぴちょん・・・・

欠片はいくつも降ってきました。太陽の光を煌かせながらいくつもの欠片が落ちてくる。 むぅはその一つを飲み込みました。欠片はむぅのお腹の中でじんわりと、温かく融けて行きます。 むぅは不思議に思いました。今までのように悲しい気持ちにならないからです。
むぅは落ちてくる欠片を一つずつ飲み込みました。一つ飲み込むたびに一つ悲しみが消えていく。そんな気がしました。
全ての欠片を飲み込んだとき、むぅには全てがわかりました。
冷たい欠片。
温かい欠片。
その二種類の欠片たちがむぅの中で一つの答えなったのです。
「・・・・・見ててくれたんだね」
むぅは言いました。ゆらゆらと揺れる水の向こうで女の子の姿がうなづいたように見えました。
「僕がずっと聞いてたように、君はずっと見ててくれたんだね」
女の子の影は動きませんでした。しかし、むぅには関係ありませんでした。お腹の中で、新しい答えが生まれていたから。
「ありがとう」
むぅはそう言うとここまで来た時のように一目散に皆のところに帰っていきました。 皆は泳ぐのをやめてむぅの帰りを待っていました。むぅが帰ってくるとみんなむぅが何か言うのを待ってます。
「どうしたの、みんな」
むぅには訳が分かりませんでした。
「どうしたのじゃねーよ。なんで人間戻らなかったんだよ」
カノンが怒ったようにいいます。
「人間が流した悲しみと喜びの涙を飲めば人間に戻れるんだぞ。お前だって分かってたんだろ」
カノンは泣きそうです。そんなカノンを、むぅは慰めるように体をぐるんと一回転させました。 黒く長い尾びれが優雅に円を描きます。
「だって、僕はこうして泳ぐことしか出来ないんだ。みんなと泳いでる時だけ、僕は僕で居られるんだ」
この湖は、罪人たちを閉じ込めておくための場所でした。誰かを裏切った罪を負う者たちが此処で許される日々を待つのです。 カノンは半分涙声でした。しかし、魚に涙を流す事は出来ません。 この湖の魚にされてしまったものたちには涙を流す事さえ許されていないのでした。
むぅはたったひとりで泳ぎ始めました。やさしく、緩やかに。すべての存在に水を注ぎ込むようにやさしくやさしく泳ぎます。 カノンがむぅに同調するように泳ぎ始めました。 赤と黒の二匹の金魚につられるようにみんなそれぞれの泳ぎを重ねていきます。
泳ぎの輪は少しずつ湖に広がりました。
そしていつしか見ていただけの生き物たちも泳ぎ始めたのです。やさしく、ゆるやかに、全てを認めて許すように。
青く晴れていた空が次第に雨雲に覆われ始めました。
もうすぐ雨が降るみたいです。
全ての生き物たちを許す涙が、降り出すまであと少し。




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