ランプシェード ランプシェード


Yはランプを消した。
さっきまで其処にあったものは全て暗闇の中に融け、粉っぽい匂いが残った。 真っ黒な毛布に包まれたシルエットだけが闇に凹凸を与えている。
何も見えない。不安が、Yの体を覆った。
Sが来るかもしれないという淡い期待だけが今のYを突き動かしていた。
Sの居場所は、其処だけだった。そしてYの居場所も同じように其処しかなかった。
Yは手探りで窓の方へ進んだ。真っ暗な中走り出したい気持ちを抑えながら、Yは足を踏み出した。
固い物を蹴った。
不協和音が悲しく鳴り、しばらく其処に留まった。 しかし、今のYには突然襲った足の痛みもおしゃべりなギターの泣き声も気にならなかった。意識は前にだけ向いている。
窓に手をかける。金属の擦れる嫌な音を立てながらギリギリと窓は開いた。
息を吐いて空を見上げる。幾つかの星が遠慮がちに瞬いていた。
眼下には、咲き誇る桜並木。匂い立つような美しさと殺気を孕んだ桜が並んで不器用につっ立っていた。 そして桜並木に隔てられるようにしてその両側には住宅街が広がっていた。Yの家は高台に建っていた。 だから遠く、バベルの塔のようにそびえ立つLタワーまではっきりと見ることが出来た。
Yは窓から身を乗り出すとすぐ下にある屋根に足をかけた。そおっと体重を乗せて屋根に乗っかる。 少し冷たい春の風がYを揺らした。 慌てて屋根にぺたん、とアヒル座りをすると座ったままいつもの場所まで移動した。
屋根の端っこは、Yの指定席だ。
「そっか。今日は、満月か。」見上げた其処には満月がいた。 銀色の光を放っている月はいつも以上に眩しい。しかし、Yは月をじぃっと見つめていた。
じっと見ていると、Yの瞳の中の月はゆらゆらと揺れた。 次第に月は形を無くし、ぐにゃぐにゃの月からは温かい水が零れた。滴はYのほっぺたを濡らした。
手を離したら落ちるかもしれない。彼は涙を拭わなかった。
眩しすぎて直視出来なくなった。そっと視線を外して桜の方をみる。すると桜の中にも銀色の月があった。 目を閉じた。暗闇の中にも、銀色の月があった。
Yは仕方なくその瞼の裏の月を見つめつづけた。
目を閉じているのに、涙は止まらなかった。

  ・・・な〜ぉ

暖かくて柔らかいモノが彼の腕に触った。びくっとして、思わず目を開ける。一際大きな滴が、彼の頬を滑り落ちた。
そこにはまだ大人に成り切れていない、とても若い猫がいた。
空色の瞳の猫。
灰色の短い毛は柔らかそうで、Yは自分でも気が付かないうちに手を伸ばしていた。
頭を撫でる。猫は気持ちよさそうに目を細めた。
「お前も夜が怖いのか?」
猫は大きな黒目で不思議そうにYを見つめた。
抱き上げると猫はぐるぐると喉を鳴らした。 風が、大きく吹きぬけた。けれど、Yの体が揺らぐ事は無かった。
小さな、暖かな命がYの腕の中にある。 Yにはその事が奇跡なような気がした。消えていった命と同じ重さの命が彼の腕の中にある。その事がいとおしかった。

彼のうちの隣では、さっきから人の出入りが激しい。
白と、黒の縞々の大きな幕の中に沢山の人間が吸い込まれては吐き出されて・・・。
Yは又、急いで銀色に輝く満月を見上げた。
今日の月は太陽よりも眩しくて、直視する事が出来ない。 けれど彼は月を見上げつづけた。強く輝く光は痛く、優しかった。
隣もその隣の家も彼の家と同じような作りの家だ。隣を見れば同じような高さ、同じような位置に屋根が出っ張っている。 其処に、今もSが座っているような気がした。初めて会ったあの日のように、屋根の上で泣きじゃくるSが居るような気がした。
けれどYには隣の家を見る事が出来なかった。

引っ越してきたばかりのある日、Yは憂鬱な気持ちで窓を開けた。彼にとってこの引越しは酷く頭の痛む問題だった。
高校入試間近での引越し。その他にも色々、彼の周りには問題ばかりが山積だった。
溜息を吐いて、何気なしに横を見る。そこに泣きじゃくるSが居た。
それが始まりだった。
Sは中高一貫の私立に通っていた。 同い年でお隣さんなのに同じ学校じゃないのがYには悔しかったが、Sが違う学校に通っていたからこそ、 こんなに親しくなれたのかもしれない。Yはそう思う事にしていた。
お互いの学校であった事、最近読んだ本の事、音楽の話、好きな芸能人。Sと話していると話題が尽きる事は無かった。
Sは一見おとなしそうで、内気で暗いように見えたが、話せば話すほど最初の印象が壊れていくのをYは感じていた。 そう、確かな喜びと共に。
けれど、どんなに話が弾んでいても今日のように月が綺麗な日、Sは遠くをぼんやりと眺め、突然何も言わなくなる時があった。 月を見ているのか、それとも、もっと他のモノを見ているのか。 その横顔は悲しい夢を見ているようで、現実離れした世界観を持っていた。
どうしてそんな顔をするのか、何回聞いてもSは適当な理由で笑って誤魔化した。 どうしたらSがそんな悲しい顔をしなくてすむのか、考えて分かる事じゃなかったが、Yは考えずには居られなかった。
Sの見ているモノを、Yも見てみたかった。他人の事で心が一杯になってしまうなんて、Yには始めての経験だった。
Yは、Sの笑顔が好きだった。
Sの笑顔を見れるだけで、心が温かくなって、意地悪な気持ちも優しく融けていくのが分かった。
Sはほっとくとすぐ黙ってしまうから、YはいつでもSを笑わせるためにおどけてばかりいた。そうする事がYの楽しみだった。
ほんとに、おどけてばかりいた。
Yはぎゅうっと猫を抱き締めた。驚いて爪を立ててもがく猫を無視して強く抱き締めた。
どうしたらこの想いを一つ残らず消し去る事が出来るだろう。 いくら泣いても、逆に笑ってみても、この悲しみは消えない。
どうしたら。どうしたら。 この想いを一つ残らず伝える事が出来るだろう。
猫がYの腕からするりと飛び出た。腕の中に冷たい風が舞い込む。
瓦の上に音もなく着地すると、彼の手の届かない場所で毛づくろいを始めた。
Yの顔に、じわじわと自虐的な笑みが浮かんだ。痛々しい笑いが彼の頬で引き攣る。 猫は相変わらず、Yの視界の隅っこで自分の体を舐めていた。

Sに、気持ちを伝えるチャンスはいくらでもあったのに。
あの横顔が怖くて、言い出せなかった。
俺は、逃げてた。

ふと、狂い咲く桜並木を見下ろすと、咲ききった花が風に吹かれる度に花びらを振りまいている。 その、花吹雪の中に女の姿が見えた。
『・・・S?』
Yは思わず屋根から飛び降りた。足を少しくじいた。 しかしそんな痛みは気にならなかった。走った。一歩足を踏み出すごとに痛みが走った。 あの女が、Sが見えたところまではすぐの距離だった。しかし今のYには何キロにも何十キロにも思えた。
右に折れる。住宅街をまた左へ。緩やかな坂道を登り切ったそこには、大きな桜が空を覆わんばかりに咲いている。
桜が散る並木道を走った。端っこまで来たが、女の姿は何処にも無かった。今きた道を引き返す。しかし、Sはどこにも居なかった。 静まり返った夜の住宅街に、Yの荒い息遣いだけが響いた。汗が滴り落ちる。 頬をつたうのは汗なのか、それとも涙なのか、桜に照らされたYの横顔は濡れていた。
Yの肩が小刻みに振るえている。笑っているのか、泣いているのか、やはり彼自身分かっていなかった。 Yの口から、囁くような声が聞こえた。
しかし、桜の花びらが一切の音を消していったのか、彼の囁きは言葉にはなれなかった。
Yはそっと手の平を差し出した。
降り注ぐ花びらはYの指先をすべり、こぼれ、落ちた。


・・・ちりん

小さな鈴の音が聞こえた。
Yが振り向くと、そこにはさっきの若い猫が座っていた。目を細め、ぐるぐると喉を鳴らしている。 降りしきる花びらの中、猫は大きな目を見開いてYを見ている。
Yは、手を伸ばした。
若い猫はYの手を振り切り、桜並木の奥へ走り出した。軽やかな足取りで駆けて行く猫の後ろ姿を見ると、 Yもついて行かなければならないような気がした。
Yは躊躇いがちに走り出した。
猫はYを誘うように、たまにYの様子を窺いながら走った。 猫の心配そうな目を見ると、Yはついて行かなければならないと感じた。
暗闇に灯る桜の下、流れる白い花びらを視界の隅で感じながらYは走った。

もっと、話したかったよ。

何も考えずに、Yは走った。
頭が空っぽになるにつれて、胸にしまっていた想いが零れだした。
もっと笑って欲しかった。
もっと、もっと、もっと、いろんな事したかった。
涙は、不思議と出なかった。ただ、胸が熱かった。 猫は更にスピードを上げた。ついて行くだけで精一杯で、もう、桜並木の終わりに近づいている事にYは気が付いていなかった。
突然、視界が開けた。
目の前には大きな夜が広がっていた。 足元で、猫がYを見上げている。黒目がちな空色の瞳でじっとYを見上げている。
Yは、空を見上げた。
そこにはいつかと同じ、とても綺麗な月が浮かんでいた。

「僕は、君になれるかな?」
 猫が、一つ鳴いた。鳴き声は優しい静寂に包まれて、消えた。




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