ムラサキ



「もーいーかい。」
 問い続けるあなた。
「もーいーよ。」
 私はそう言えずに、紫陽花の根元にしゃがみこんでた。早く見つけて欲しかった。
でも、一言でも発したらここにいる事がばれてしまう。そう思って、何も言えずにいた。
頭の上にかぶさる紫陽花の大きな花。
見上げると花房には水滴が沢山ついていて、一粒一粒が青く染まってた。冷たくて甘そう。
つやり、小さく光る無数の水滴に鼻を寄せると鼻頭が濡れた。
「くんっ」て吸ってみる。鼻を指すのは湿った土の匂い。葉っぱごしに見上げる。雨上がりの空、暮れかけの濃い青。
髪の毛も背中も肩も紫陽花の雫で濡れていた。ブラウスが背中に張り付く。冷たくて気持ちが悪い。
ほんの少し悲しくなった私は、膝を抱えて出来るだけ小さくなった。
みつからないように、早くみつかるようにと祈りながら。
「さっちゃーん。まだー?」
 泣き出しそうなあなたの声が聞こえた。
「もーいーよ。」
 小さな声で言ってみる。けれどもずっと向こうの木の下で、木にむかって目隠ししてるあなたには届くわけない。
緑色の半ズボン。白いトレーナーの背中に向かってもう一度「もういいよ。」と言ってみる。不安げな後姿は相変わらずだった。
そんなあなたを見つめていると、何故だか胸がどきどきした。
泣き出す寸前の酸っぱさが咽の奥からこみ上げて来て、からだ中が勝手に、歓声を上げたようにざわめく。
悲しいような気分。それでいてこの上なく嬉しいような気分。心も、からだも、自分のものじゃなくなったみたい。
膝をぎゅっと抱えて思う。ただあなたに、見つけて欲しかった。
「さっちゃーん」
 あなたは我慢できなくなって、ついに振り返った。
心が広がった。さぁ、早く見つけて。わたしはここにいる。あなたに見つけられるのを待ってる。
 あなたはきょろきょろ辺りを見回して、ゆっくりと歩き出した。
私の名前を呼びながら、ベンチの下、遊具の影を探す。
自然と頬が緩んだ。
「さっちゃーん、いないのー。」
 もう、殆ど泣き声になってる。あなたの声は広がりもせず消えた。私はそんなあなたをただ見ていた。
傷ついたあなたの声に答える事も無く。意地悪く広がっていく喜びに浸りながら。
あなたは肩を落とし歩き出した。公園の出口に向かって。
 やばい。瞬時に感じて、気づいたら駆け出していた。
ぬかるむ地面を蹴って蹴って、足を取られた。転ぶ寸前で地面を蹴った。大きく揺れるあなたの背中が近づく。
ごめんね。ごめん。そう思いながら。
右手を思いっきり伸ばした。
華奢な肩を掴んだ。
肩がおおきくびくりと震える。
振り向いた顔は、やっぱり泣いてた。
「ははっ、何泣いてるの?ばかじゃん。」
 出てきたことば。俊治に顔に張り付いたのはきっと意地の悪い笑みだろう。
あなたの前のいつもの私。ごめん、ごめん。そう言おうとした時、振り返ったあなたは思い切り私を突き飛ばした。
「あっ。」
からだのバランスが大きく崩れる。大きく傾いだ空はもう、大分オレンジ色に染められている。
倒れるまでの時間はゆったりとしていた。このまま倒れたら手を擦りむくかもしれない。
でもなんだかどうだってよくて、青と茜が混じる輝く赤、光る空に息を飲んだ。
私は尻から転んだ。背中と肩をしたたかに打った。一瞬息が止まって、今何が起きているのかよく分かんなくなった。
視界に入るのは私を見下ろすあなたの泣き顔。ひどく生々しい。
「あぁ。この人はここに、こうして、生きてるんだ。」からだを貫く衝撃と、あなたの泣き顔を見て、わたしは初めてそう感じた。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
あなたはしばらく茫然とあたしを見つめた後、何も言わずに背中を向けた。
そして、大またで歩いてく。再び、公園の出口に向かって。
あなたは隣のスーパーの影に吸い込まれていった。
しばらく、消えた一点を見つめてから、私は大の字に寝転んだ。
肩、背中、手、腰。あちこちが痛かった。髪の毛もブラウスもスカートも泥だらけだ。お気に入りだったのに。
ふあふあで女の子っぽくて。
あーあ。お母さんに怒られてしまう。
あたしは目を閉じた。ふーっ、ふーっ。ふーっ。自分の鼻息だけがやけに大きく聞こえる。
ふーっ、ふーっ、ふーっ。はぁ。目をあけると息も止まるくらい大きな天井が広がっていた。もうまぶしくないあおぞら。
・・・見つけてくれなかったくせに。
私のこと見つけられなかったくせに。
見つけて欲しかったのに・・・。
横を向くと、紫陽花がこっちを見てた。大きな鞠のような、優しい紫色。
突然ふって湧いたように涙があふれた。
悲しくて悲しくて、声を上げて泣いた。もっと大きな声で泣けば、あなたが戻ってくるかもしれない。そう思ってもっと泣いた。
けど、あなたは戻ってこなかった。
オレンジ色の光、影が果てしなく伸びてしまってから、私は立ち上がった。
熱くなった手を見る。泥だらけの手の平には血が滲んでた。じんじんする。痛い手で涙を拭いた。
帰ろう、お家に帰ろう。
そう思うのに、私は初めの一歩を踏み出せずにいた。

同じ痛みをあなたに与えたい。

そればかり考えていた。
この悲しみを、胸の酸っぱさを。あなたの事ばっかり考えてしまう苦しみを。あなたにも味あわせたいと。

私はゆっくりと右足を踏み出した。二歩、三歩。
歩き出した私は、もう一度紫陽花を見た。紫陽花はさっきと同じようにそこにいた。
どうしてだろう。
悲しくて悔しくて苦しいのに、今はどうしようもなく、ごめんなさいって言いたい。
優しいムラサキは叱りもせず、誉めもせず、半分夜に溶けかけながら微笑んでいた。





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