---Insects---
from sai

no.2...ふたつの景色


彼は家の外で煙草をふかしていた。
彼の妹が今日買い物に付き合って欲しいというのだ。
しぶしぶ承諾したものの、女の用意は遅い。
季節は初秋。少し肌寒い所為で彼の妹は着る服の選定に時間がかかっているらしい。

不意にぐらり、と地面が揺れる。
ぐらぐら。緩急をつけながら、ときに大きく、ときに微かに足元から伝わる微かな振動。
思わず彼は身構える。煙草を足で揉み消して辺りを伺う。
大地震の予兆かと脅えてしまう彼がいる。
やがて揺れは収まり、ただの日常的な地震に過ぎなかったことに彼は安堵する。
そして、彼は考えずにはいられない。
いつか確実に訪れるであろう未曾有の大災害。
大都市が只の瓦礫と化す瞬間。
彼が生まれ育った小さな街が崩れ去る日。
大人は老人と子供を案じ、老人は孫を案じ、子供は未来を案じる。
大切な人が、自然に容易く攫われてゆく。
いつか、必ず訪れる破滅――――必ずだ。
それでも彼らは此処に留まり続ける。仮定の死より、現実の生を優先するがゆえに。
或いは誰もが、誰が死んでも自分だけは生き残るとどこかで信じているからかもしれない。

ふーっと大きく息をつく。
何もそんなに大げさなことじゃないのだ、と彼は自分に言い聞かせる。
彼が死んでも、誰が困るわけではない。どんな人間がこの世からいなくなっても、地球の運営に支障は出ない。
そのことを彼はよく判っていた。


“長い長い夢を見ていた”
“永く永く夢見ていた世界は美しかった”


気がつくと、彼の足元に瀕死の蝉が転がっていた。
蝉は時折思い出したように身体を震わせ「自分は生きている」と主張する。
彼はその蝉に足を掛け、暴れる隙を与えずに体重をかける。
ぐしゃり、と音がして蝉は潰れた。
丁度用意を終えて家から出てきた彼の妹がその光景を見て、目の色を変えて兄に詰め寄る。
「―――放っとけば明日には死んでるんだ。楽にしてやっただけだよ」彼は事も無げに言う。
「寒くて飛べないだけかもしれないじゃん!明日晴れたら、飛べたかもしれない」
「その前に冷たくなってると思うけど」
「でもっ、お兄ちゃんにそんなことする権利ないよ!」
 妹が眦を吊り上げて彼を睨んでいる。そんな妹は揚葉蝶を捕まえて飼っている蜘蛛に与えたくせになんて勝手なやつだと兄は思う。
「可哀想だよ・・・・・・」
妹は屍骸は決して見ようとせず、兄だけを見据えて呟いた。
蝉は潰れた白い腹と関節の曲がった足ををみっともなく空に向け汚らしく死んでいる。
彼はそれをしばらく見つめていたが、やっぱり罪悪感などは微塵も感じなかった。


“長い長い夢を見ていた”
“永く永く夢見ていた世界は美しかった”
“本当に――――”


生まれてすぐに彼は鳴いた。
気温は低く、手足は凍りつきそうだった。
だが彼は鳴いた。羽根を震わせて、精一杯。
彼を産み落としたこの世界に向かって。

頭上には遙か高い空と太陽。
彼が目覚めて初めて見る景色たち。
決して自然に調和してるとは言いがたいが、整然と並んだ道路、角と線で正確に作られた建物。
それはとても綺麗なものの様に思えた。


季節を間違えて生まれてきた蝉が、
微かに感じ、その目に焼き付けた幸せな景色は確かなものだった。
彼は直ぐに冷気に負けて、力なく道路に転がってしまったけれど。
もう一度飛びたくて、もう一度太陽を感じたくて藻掻いてみた。
泣きながら。
そして、小さな命は、あっという間に摘み取られた。
美しい世界によって。
次の瞬間、世界が激しく傾いたことも彼は知らなかった。


ぐらっ。
また、地面が傾いた。
地震と認識する間も与えられずに、次に気がついたとき、彼は空を見ていた。
それから、ビルの大きすぎる欠片がまるで巨人の足裏のように彼に被さってくるのが見えた。
目の端で捕らえた変わり果てた街を、彼は醜いと思った。

あの蝉は、この景色を見なくて済んだんだ。

彼は少しだけ誇らしい気分になった。
そして、遠くで、妹が叫ぶ声がした。

まるで、さっきの蝉みたいだ。
何故か動かない羽の代わりの足を少し憎みながら、ぼんやりと思った。


END.


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no.3"ふたつの景色 後編"